おやすみなさい

旧nikki desu

風船ははたして何色だったか

 

仕事からの帰り道、電車を降り改札を出て、地上への階段を駆け上がる小学生を見た。

脚が長い。

すらと伸びた手足、バランスのよい身体、長く、しかし子供特有の痩せっぽちさはあまり感じられない美しい脚だった。

白色の子供っぽいショートパンツを履いて、キャラクターの描かれた薄汚れたピンク色のリュックサックを背負っている。身体だけが大人のようで、けれどなぜか小学生だと分かる。あれは中学生ではない。

わたしのより細い脚、わたしのより長い脚を惜しみなく晒し、彼女は階段を駆け上がっていった。

時刻はもうすぐ18時。家に帰るのだろう、とわたしは思う。走って帰ることのできる家に、大人のような小学生が走って帰る。これは、わたしの勝手な想像であるのだが。

 

あの子は将来どんな大人になるのだろうかと考える。

高校に入学したばかりのころにわたしが「このこは本当はカワイイ」と目を付けていた黒髪ノーメイクの地味な女の子たちは、卒業するころにはほとんど例外なくくだらないギャルになっていたことを不意に思いだした。

 


ランドセルじゃないんだな、と思う。赤いランドセルだったら絵になったのにと。ご都合主義の思考回路、そもそも赤いランドセルという記号がもはや死んでいる。わたしはダサい。

 

ランドセルといえばいつも思いだす。わたしは赤のランドセルを使っていたけれど一般的なツヤツヤのタイプではなく、艶消しで、色も少し落ち着いた臙脂のような赤色のものだった。

今思い返すととてもよいものなのだが、わたしは例のツヤッツヤピッカピカの赤色がうらやましく、また、二年生になるころには男の子に憧れ黒色のランドセルがうらやましくなり、このころからだんだんとランドセルを背負わなくなってきた。とてももったいないことをしたと思う。

 

わたしの両親、祖父母はとてもよい趣味をしている。持ち物や服装、食べ物や遊び。今になってよく分かる。けれど子供のころはいつも、周りと同じコドモっぽいチープなものが欲しくてたまらなかった。

 

小学二年生のころはわたしの人生至上最も女性性を嫌悪していた時期で、女の子らしい恰好をしたくなくて毎日ジャージを履いて登校していた。習字セットや裁縫セット、ナップザックなど、そういった学校で買うものはすべて男の子仕様のものを選んだ。

母は不可解に思っていたようだが、最終的にはいつも好きなものを選べばいいと言ってくれた。

男の子に憧れていた時期のわたしは、男の子がすべてのデフォルトなのだと思っていた。だから、男の子っぽく居ることイコール自然体、自然体で居ることイコール男の子っぽいことなのだと思っていたようだ。

前髪も伸ばしっぱなしにして、って、わたしはそういえば今も前髪は伸ばしっぱなしなのだが、あのころのわたしの顔を思いだそうとすると今の自分とそっくりで笑える。ちっとも顔が変わっていないし、ふてくされた顔ばかり浮かんできて困る。自分の顔を思いだすとき、頭のなかのわたしはいつもなにもかもに不満を感じ拗ねているような顔をしている。

極めてどうでもよいことだが今は毎日前髪を切りたくてしかたがない。前髪がほしい。自分の顔立ちには前髪があったほうがよい気がする。けれど仕事の都合上前髪は長いほうが楽。迷っている。

 

小学三年生になると、反動なんだかなんなんだか、真っ白いヒラヒラのスカートやフリルのついたオフショルダーのトップスなんかを好むようになった。男の子仕様のものを選ぶこともなくなった。前髪も切った。

露出が増えてくると母は、そういうのは大人になっても着れるし、と言った。わたしはその反応がとても嫌で、反抗するようにチューブトップを着てショーパンを履いた。

 


帰り道、コンビニに寄って、アマゾンから届いた金井美恵子の『愛の生活』とタンポンと無水エタノールとハッカ油を受け取った。気持ちの悪い組み合わせだと思った。

愛の生活は、あの人に貸している。もう何年も前のことだし自主的に返さないものを催促するのもめんどうだ。きっと本人は忘れている、とも思う。

今までもこうやっていくつもの本やDVDを手放したしいくつも同じものを買い直した。なんだかそういうもんだ、と思う。

ちなみにシアターテレビジョンで放送された大人計画の『エロスの果て』を録画したDVDはあの子に貸しているし、エロスの果ての戯曲はあの子の元彼に貸している。そのことを根に持って、まじでダラシないカップルだな、とずっと思っていた。彼や彼女のツイッターのつぶやきを見ていると、いまだに、ああなんだかだらしない人だなあ、ヨレヨレの毛玉だらけのスエットみたい、と思う。

かくいうわたしも何冊か人の本を持っている。

申し訳ない気持ちになるけれどなんかもうめんどい。もはや会うこともないひとたちであるし。けれどすべて覚えている。小学生のころよく遊んだあの子、大学に入って初めて付き合ったあの人、卒業制作で一緒に苦労したあの子。ごめんね。

遅くなってごめんねって早く返せばいいのになと自分で思う。何年ゴメンネと思っているつもりか。一生。

もうわりとナチュラルになにもかもがめんどい。いつもめんどい。もうずっとめんどい。

メールも二か月返していないしラインも今見たら27件溜まっている。認識はしてるんだけどな。

最近彼氏にもラインを返せない。

既読するのに二日、返信するのに三日かかる。これはもうだめなのだと思う。別れ方は、いつも同じだから分かる。

妹にだけは毎日ラインしている。母にもたまにはメールするようにしている。

 

家のそばで、電線に風船が引っかかっていた。

というと絵葉書のような風景が思い浮かぶがそうではなく、ひもはからまっているし肝心の風船だってしぼんでしょぼくれていて、でもそれがよいのだ、こういうのが真実なのだ、日常の風景なのだとわたしは思う。

なにより、その光景をみてまず思ったことは、あれってあぶなくないのかなー、いやあぶないよなー、ということだった。うつくしくない。

暮らしはうつくしくないが、それがまたうつくしいのである。とか思ってしまうのがうつくしくないのだが、それもまたひとつのうつくしさなのであった。(おおよろこび)

 

わたしは明日もスーツを着て仕事へ行く。あさっては休み。しあさってはまた仕事。

今思い直すと、冒頭の女の子のことは後姿しか見ていないのだが、なぜ小学生だと思ったのだろう。

雰囲気は小学生のそれであったが、小学生がなぜ月曜日のあの時間に電車に、と、思った、思い、けれどあれは小学生であるし、きっと家に帰る。

 

 

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渇望

渇望はない。

おもったよりへいきだし、おもったより時間は過ぎてゆく。

4月1日からしごとをはじめて、それから一文も書いていない。本もほとんど読んでいない。芝居も観ていないし映画も観ていない。たまに、うつくしい言葉を、とおもうくらいだった。

わたしの部屋は未だベッドと机しか大きな家具がない。ソファやラックも買うつもりで、でも未だ選びきれずにいる。いいかげん決めたい。そして部屋をいったん完成させたい。

そのため収納場所がなく、本やまんがはまだ実家に置いたままだ。一度、好きなもののない生活ってなんて貧相なのだろう、とおもい、実家から気分で五冊だけ本を持ってきた。種村季弘の『雨の日はソファで散歩』とペソアの『不穏の書、断章』と三島の『仮面の告白』とコクトーの『恐るべき子供たち』と永井均の『ヴィトゲンシュタイン入門』。けれどそれらもほとんど読んでいない。


いつのまにか時間が過ぎているのにおどろく。

昨日一日休みだったはずなのに満喫行ってまんが読んだだけでもう今日だし今日だってさっき起きたばかりのはずだしそもそも5月ももう21日なのだ、うそくさい、だってわたしはさいきん働きはじめたばかりでまだ分からないことだらけなのに。

このままでは一生なんてあっというまに過ぎてしまう、とおもった。

 

パソコンをさわったのすらひさしぶりである。

毎日8時間しごとに出掛けて、でも休憩含めるとけっきょく9時間で残業だってするししごとに行くためにはその準備や通勤時間もかかる。

帰ってきたらごはんを作って食べてねむる。起きたらまたしごとへ行く。

拘束時間、という枠組みで考えるとこれまでとちっとも変らない生活をおくっている。それなのになんだかぜんぜんちがう、とおもう。はたらいている。

 

いまのところ、仕事ちゅうも休みのことばかり考えている。3割くらいは豚のことを考えている。

休みといってもなにをするでもなく、洗濯をしたり、掃除をしたり、スーパーに行ったりでこれまたあっというまに一日が過ぎてゆく。

時間というものはそもそもこういう速度のものなのかもしれないとおもう。

子供のころの、10分待てないあの間延びした感覚こそが異常だったのではないか。

この調子では、一年なんてあっというまであるし、その積み重ねで一生だってあっというまだ。

辛いこともたのしいこともすべて一瞬のできごとだった。そういうものだった。ただ時間は過ぎてゆく、ただそれだけの一生だった。とおもう。とおもう。

洗濯は毎日できないが洗い物だけは毎日する。翌日に持ち越すと一生できないきがしている。

 

はたらきはじめ、分からないことばかりできないことばかりでふがいない、申し訳ない、故につらいという時期を経て、5月に入るころには少し慣れてきた。なんなら楽しいこともふえた。

ところが1週間ほど前、とつぜんすべてがダメになった。1日にいくつもミスをぶちかます。悪い癖だった。パニックになって頭がまわらない。つらい。なにもかもが嫌で、なんで自分はこんなにだめなんだ、もうほんとうに早く帰りたい、とそればかりおもった。数か月でしごと辞めるひとなんてばかでしょ、とおもっていたが、それでもいい、辞めよう、とおもった。人と接するサービス業なんて、そもそもわたしには向いていないのだ。ひたすら苦痛だった。

 

こんなこと、ちっとも初めてでない。

わたしはずっとこういう時間を過ごしてきたのだった。思いだす。忘れていただけだった。わたしはもともとずっとずっと苦痛なだけの時間を過ごしてきたんだ、ただ忘れていただけだった。つらくてパニクってどうしようもなくなる。

ではそのときどうやってその時間をやり過ごしたのか、いや、やり過ごすのは存外簡単で、やり過ごすだけではいけない場合が厄介なのだった。

こどものころは、ただつらいつらいとおもっていてもよかった。パニックになって固まっていたって時間はかってに過ぎてゆくのだから。

 

中学生のころ、わけもわからずなにかがつらく、常時脳内過剰回転で空回り、ペンも握れずもちろん勉強なんてできなかったけれど、それでも時間はかってに過ぎて、わたしはいつのまにか24歳になった。

つらい、と思っているだけで、そのつらさをぞんぶんにかんじているだけで時間は過ぎてゆくが、なにかをしようとしたとき、行動や思考が必要になるときにそれではいけない。

演劇をやっていたときもそうだった。しごともそうだ。やらなきゃ、やりたい、とおもう。死ぬまでただ時間をやり過ごすことだってできるけれど、そうじゃないのだから、じぶんで決めたことなのだから。

 

そのばあいにわたしが用いてきたのが酒と薬なのだった(あやしいやつじゃありません)。

職業柄酒のにおいには敏感なひとが多いだろうし、酒は抜けてきたころがしんどいけれど仕事中じゃ追加もできないので却下、となれば考えつくのは薬だけだった。

別にもういいだろと思っていて、でもなんとなく持ってきたなかでいちばん無難な薬を選んだ。

薬を飲んで数日すごしたら、それだけできゅうに楽になった。マアイイヤ、とおもえるようになった。じぶんはあまり成長していないな、とおもう。それでもこれからもこうやって自分をコントロールしてゆこうとおもった。

 

しごとがいま楽しくないのはしかたがない。だってじぶんが楽しめるところまでまだたどり着けてないのだもの。まず覚えて、数こなして、慣れて、それでようやく自分なりの、とか、楽しみかた、とか、分かってくるものだと考えている。だからいまはしかたがない。そういうもの、とおもう。

 

「おもう」「かんじる」じゃなく「考えろ」とわたしはいつも考える。

考えることさえできれば物事はすすむ。なにがなぜつらくてどうすればそれを解決できるのか、ということを考える。

つらさで人が死ぬわけではないし、じゃあつらさがなにがいけないのかというと、わたしの場合はパニックに陥り考えることができなくなるからなのだった。

のちのち冷静になって考えた結果、けっきょくのところ、わたしはいつも人より考えすぎ、まじめすぎ、緊張しすぎ、なのである。

むかしにくらべるとずいぶんとまじめじゃなさは手に入れてきたけれど、それでもまだ人並み以上にまじめだ。

もっと楽にしなければ人並みではいられない。ふつうでいるために楽でいなければならない。

これが、内的ななにかによって成せればいちばん良いのだけれど、いまはまだそうはできないから、外的要素を用いてでもむりくりふつうになる。年をとるにつれてだんだんましになってきたなとおもっていたけれど、たまに今回のようにぐっと引き戻される。80歳くらいになったらたぶん人並みにまじめじゃなくなれるきがする。

わたしはふつうになれたらだれにも負けないじしんがあるのに。

 

 

テレビがないので音楽ばかり聴いている。10年前と同じ音楽。

ぞっとする。14歳からもう10年経っている。この10年間わたしはひたすら同じバンドを同じアルバムを同じ曲を聴きつづけている。

形は変わろうとも、心のこと音楽のこと言葉のことバンドマンのこと、そしてなにより自分のことばかりかんがえつづけた10年だった。

わたしがスゴイなこの人適わんなとおもうのは、どんなにすばらしい物語を書ける作家でもどんなに美しいものを描けるアーティストでもどんなにおいしいカクテルが作れるバーテンダーでもなく、ただ社会で暮らしてゆく知恵を持っている人と、なによりただ楽器を弾けるだけの歌が歌えるだけのミュージシャンだった。

わたしが信じる歌を生み出してくれるミュージシャンはすごい。ただただすごい。すばらしい。無条件に愛すべき存在。

 

中学生のころ、深夜になるとネットラジオをよく聴いていた。

いまのネットラジオと違って主の声が聴けるとかましてや顔が見られるとかそんなんではなく、垂れ流しっていうのか、ただその主のチョイスした音源がずっと流れているというタイプのラジオだった。

朝までそのラジオを聴きながら、たまにそれを聴いているひとや主と某匿名掲示板で会話を交わす、というのがわたしの休み前の夜の過ごしかただった。

なんでだろう、しんどいとかしにたいとかそんなことばかりだったけれど、いまになってあの時間を、リビングで息を潜めてディスプレイを見つめていたあの時間を、さむくてでも暖房も付けずに椅子の上で膝を抱えていたあの時間をなつかしく、いとおしくおもう。

朝方になるとよく流れていた曲、シロップのタクシードライバー・ブラインドネススピッツの大宮サンセット、ペリの労働あたりを聴くと、いまもあの風景を、あのときの気分をおもいだす。胸がぎゅっとなる。

 

泊まり勤務明けの朝、不意にそんな曲のことをおもいだした。

じぶんのなかで徹夜ソングだった歌がしごとと繋がって、時間って過ぎてゆくのだなあ、年をとったのだなあ、とじんわりおもった。

帰り道、地下鉄に乗りながらipodをひっぱりだしてあの曲を聴いた。やっぱりあの夜のことをおもいだす。最寄の駅に着き、地下にある駅から階段を上って外に出ると、引くほど陽が照っていて目が開けられない。ほとんど夏だった。就活用に買ったパンプスを引き摺るようにして家まで帰った。家に帰りドアを開けると空気がひんやりと冷たく、これから2日間の休みがあるのだとおもうと最高の気分になった。

 夏はもうすぐそこ。でもその前には梅雨がある。

 

 

 

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それじゃあおやすみまたあしたネ

学校をでた。

家もでた。

 

たくさんの人にメールを返していない。

お礼を言いたい人がたくさんいるけれどその動作がめんどうくさい。

 

卒業式はちっとも泣けなかった。

卒業する感慨なんてどこにもなく、ただ、ああこれからも制作をつづけよう、と思うばかりだった。

式の後飲みに行くことにしたが、待ち合わせの時刻まで時間があったので、ただなんとなく、ふらっと、学部時代の研究室に立ち寄ってみた。学部時代にとてもお世話になった先生にお礼でも言おうかな、と軽く思った。

先生に会うのは、ほとんど2年ぶりだった。進学するまでさんざん面倒を見てもらって、けれど進学してからはちっとも研究室に寄りつかなかった。

先生の顔を見てひとこと喋ろうとすると、なぜだか涙がこぼれた。

いつも背中を押してくれたのはこの人だったかもしれない、と思った。会いにこなくてすみません、とも思った。

その人は演技の先生だった。

思い出したのは、面談のときのこと。

学部生時代は年に一度か二度、先生との面談があった。わたしはそれが嫌で嫌でしかたがなかった。

わたしはとても無口な学生だった。自分の考えていることなんて、自分のほんとうに思っていることなんて口にするもんか、できるもんか、と思っていた。

作品を作らなきゃ、そんなこと言う必要もなかった。てきとうににこにこ笑って、こいつらみんなバカ、と思っていればやっていけた。

けれど舞台を作ろうと思ったとき、集団で制作を行おうとしたとき、そんなことでは決して作品は成立しない。だからなにかにつけて、この学科では言葉にすること、それを口に出すことを強いられた。言語化しなさい。先生はよくそう言っていた。

演技の授業もそうだった。自分を開くこと。すなおになること。わたしの苦手なことばかりだった。

演技はウソ、フィクションなのだと思っていたけれど、演技はウソなんかじゃなかった。演技がウソじゃないのなら、舞台には真実が乗る。すばらしい発見だった。芸術はフィクションじゃない。芸術にはノンフィクション以上の真実が宿る。

面談の場でも、もちろんわたしは何も言えない。誤解されるのが怖い。バカだと思われるのが怖い。

面談では、自分が何をしたいのか、そのためになにをしてきたか、そして今後どうするのか、ということが問われる。

「言わなきゃ分かんないでしょ?」

分かってる。けれど言えない。

覚悟を決めて芸大に来たくせに、毎度毎度、面談の席で私は泣いた。作品を作りたい。戯曲を書きたい。演出をしたい。そう言うだけで、言おうとするだけで胸が苦しくて言葉が詰まった。言葉が喉につっかえて、でも気持らどんどん膨らんで、行き場を失った感情にぎゅうぎゅう押されて言葉の代わりに涙ばかり流した。

2回生の面談で、ばかみたいに泣きながら「物語をつくりたい」と言ってからは早かった。そこからすべてが回りだした。あのときあの一言を口にしていなかったら今のわたしはいないのだろうな。それはとても恐ろしいことだと思った。

すみません、なんか泣いてます、そう言いながら泣いて、そんな自分がおかしくて笑った。泣き笑いだった。結局わたしはなにも言うことができなかった。

わたし先生のおかげで変わりました。いつもきっかけをくれたのは先生でした。言えなかった。

他人の前でなんか泣いてたまるもんか。そんなふうに思っていたわたしが、もうどうしようもなくて泣き出したのも、そういえば大学に入ってからだった。悲しくて苦しくてもどかしくて泣いて、けれどいつも最後には泣き笑いだった。ありがとう、といつもすなおに思えた。

「まあまたゆっくりとご飯でもいこうよ」先生はそう言った。


けっきょく、ものになれば、このなかの誰にだって会える。先生にだって会えるし友人にも知人にも会える。わたしはこのまま死ぬつもりなんかさらさらないから、別にさよならだって思わなかった。

ただ、こつこつと、地道に、続けるほかないのだと思った。

 

 

一人暮らしはあんがいさみしくない。ただ淡々と時間はすぎてゆく。

ベッドを買ってふとんカバーを選び、カーテンを付けた。ラグも届いた。明日はテーブルが届く。

健康診断を受けた。視力検診があるのにコンタクトをつけ忘れていた。二日酔いでしんぱいだったのだけれど、それいがいは何も問題もなかった。生活はつづいてゆく。



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羊数える


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ここ一週間は、こんなかんじでした。
しばらくこんな感じが続くこととおもいます。
なんにせよ、毎日五時半起きはきついしはやく一日十二時間寝れる生活にもどりたいし小屋入りとか搬入とか集団作業していると一日に三回は猛烈な孤独に襲われてもう死ぬしかない……となるので塩辛いです。
でもがくせいさいごだからがんばりますまる。
がんばりますまる!







墓穴掘り

 

■■ ■■先生

 

 

返信が遅れてしまって申し訳ございません。

ご連絡、ありがとうございます。

率直なご意見、また、とてもありがたいお言葉をいただけ、非常にうれしく思っています。

少々長くなってしまいますので、お時間のあるときにでもお付き合いください。

 

 

「■■■■■■■■■■■」という言葉に関しては、おっしゃられる通りだと感じます。しかしきらきら、という言葉の軽薄でチープな響きや、きらきら、という表現の「甘さ」、また、甘い、という言葉の持つ「甘美な」そして「厳格でない」という意味の二重性を考えると、現段階ではそれ以上にしっくりとくる表現が思いつきません。このあたりがまだまだ勉強不足であると感じます。もっと相応しく、また独創的な表現を追求してゆきたいと考えています。

 

また、つなぎの文章に関しましては、私自身少々捻りが足りないというか型にはまっているかなとも感じていました。

しかし、それはそれでいいのかもしれないとも思っていたのです。二、四、六のものは、特にそうです。

「■■■」では、「あのころ」、そして、あのころ、と口にするときの甘やかな郷愁のようなものを描きたいと思っていました。

そのため「■■■」でキーになっているのは「記憶」と「終わり」です。メインになっている三本の短編は、端的に言うと「記憶」と「その記憶の余韻」=「思い出」を描いたものでした。

一方二、四では、「記憶の終わり」を描きました。そこにはもう記憶の余韻すらなく、あのころへの郷愁もなければ、あのころと口に出すこともありません。そこには「思い出」、物語はもうありません。

ただ、六に関してはもっと作り込むことができたと感じています。

 

口頭試問の席で、先生方が、〇、一、九の語りはマクベスの三人の魔女のようだとおっしゃられました。たしかにその通りだとわたしにも感じられました。しかしわたしはそれをあえて、「亡霊」と呼びたく思います。

 

タイトルの「■■■」という言葉は、■■■■氏の作品「■■■■■■■■■」に登場する「■■■」という概念を引用しています。

「■■■■■■■■■■■」もまた、街と街に集う若者、そしてその時代を描いた作品でした。

■■■、一言でいうとそれは、「どこにもない理想郷」です。「欲望それそのもの」であるとも言えるかもしれません。

人生の中で誰しもが一度出会えて、そして必ず終わってゆくなぜだか無性に輝かしい時間、ひとはそれを「青春」と呼ぶのだと思いますが、その時間と、なにかを求めてひととき訪れ、そして必ず家に帰ってゆく「街」という場を掛け合わせました。

「■■■」では、スポコン漫画に出てくるような分かりやすい形ではないですが、たしかに青春を描いたのだと感じています。そしてその青春の時間を過ごす女性を、私は「女の子」と呼んでいます。だから「■■■」は女の子たちの物語であることは間違いありません。

女の子たちは、なぜでしょうか、皆自主的に女の子であることを「卒業」してゆくのです。「もういいとしだから」「いつまでもこんなことしてられない」。誰に言われたわけでもないのにそうして自らして女の子であることをやめてしまいます。それはさながら「女の子」の「自殺」です。

 

ものを書くという行為は、思い出や記憶をひとつひとつ埋葬してゆくことだと常々感じます。

埋葬したつもりになって、けれど成仏しきれないもの、それが亡霊です。

彼女たちもまた、女の子であった自分を殺しかりそめの大人の道をゆきます。

人(ここでは女の子、ですね)が街を欲するのは、街にはやはりそういった女の子をやめてしまった女の子たちの女の子の部分の亡霊がうようよしていて、それに感電するからなのではないかと私は感じるのです。

 

八において、お分かりかと思いますが、この語り手の女性は三の■■です。■■もまた、時を経て、青春時代とその郷愁を忘れかけています。

さきほど、二、四には思い出も物語もないと書きましたが、それでいいのです。それこそが、生きてゆくということ、暮らしてゆくということなのだとわたしは感じています。

わたしの制作テーマは「生活を続ける」です。「生活が続く」ではなく、続ける、のです。このお先真っ暗な世の中にあって、自ら暮らしを続けること、暫定的にその営みを選択することに価値があると感じています。

楽しかったことどころか悲しかったことすらも忘れてゆきなにもなかったことになってしまうのはどこかさみしいことに感じられますが、そうしてでもこれからを生きてゆくことが尊いのだと信じています。

 

思っていたよりずいぶん長くなってしまいました。

おっしゃられる通り、次は中編を書くつもりで準備を進めています。

また機会があれば、ぜひ読んでくださいね!

まだまだ寒い日が続きますので、風邪など召されぬようお気を付けくださいね。

それではまた。


■■ ■■

 

 

 

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