おやすみなさい

旧nikki desu

ゆめゆめ

べつになんでもないのだが、パソコンで記事を書くと、色をつけてしまうというか、調子に乗ってしまうというか、文章、を書きたくなってしまう
どうでもいいのだが
これはアイフォン、で書いている、ぬるぬる
アイフォン、がなぜ変換されないのか
これは、アイフォン、なのに



今日はシーツを替えた
無印の竺ベージュボックスシーツの上に無印の毛布みたいなベッドパッドを敷いていたのだが、なんだか暑いらしく、寝るとものすごく汗をかいている
ふわふわした肌触りがとてもすきで年中毛布ですごしてもいいよって思っていたのだがさすがに暑かったようで
ベッドパッドを外してシーツに寝転んでみたら毛玉が気になった
ので無印で綿の真っ白のボックスシーツを買ってきてそれに替えた
まるで夏みたいな色をしている
白って
掛け布団カバーまで変えたくなっちゃったな
どうしようかな
いつか見た、レモンの柄の布団カバーが、夏らしくて、いいなっておもった
ああ夏
外に出てこれ以上暑くなるとほんとうにやってゆけない、わたしは
そういえば先週から仕事をやすんでいる
休職というやつ
新しい綿はかたくて皮膚がすこしかゆい
タリオンを飲めば蕁麻疹はなおる、としんじている、わたしは



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真夜中のなみちゃんは夢の中にログインしました

 

 

わたしはありとあらゆるものの概念を愛しているに過ぎなく、それそのものは愛しているどころか激しく嫌悪しているのかもしれないと思った。

その代表的なものが人間であって、わたしは人間という概念はひどくいとおしく感じるけれど、人間そのものには、むらがあるし、汚いし、どこかでかならず嫌悪感が沸く。しかし概念はそれ混みでいとおしく、愛らしい。

 

概念とはきっと霞のようなものだろう。

霞を食っては生きていけないと言うが、わたしはきっと霞を食って生きている。

あるいはわたしは生きていたことなどないのかもしれないし、もしかすると、仙人なのかもしれない。

 

また概念的な話になった。

わたしが人とほんとうに交わることができないのはこういうことが原因なのかもしれない。

それとも、人というものは皆こういうものなのだろうか。

そうだとすれば、人間という概念そのものが崩れることとなるし、人と人との交わりとは、いったい????

 

人間が、精神的な存在でなくてよかった、とよく思う。

人間は物質であり、薬が効くのは、食べ物が必要なのは人間が物質的な存在だからである。心理的な存在でなく、科学的な存在である、とも言えるのかもしれない。

もしくは、概念的な存在でなく、実際的な存在である、とも。

いや、しかしここで観念という言葉を持ち出してしまうとこの話自体の意味がさらにややこしくなってしまう。しかし実際のところはそうなのかもしれない。実際という言葉を今用いたことで自体はさらに深刻になってしまった。

人間は、触れればたしかにそこに肌触りや体温がある。

しかし、肌触りや体温すら、脳の信号でしかなく?????

 

わたしはほんとうのことが知りたい、真実が知りたいといつも考えているけれど、となると、わたしは本当という、真実という概念が知りたいだけで真実などちっとも知りたくないのではないかとも思える。

きっと真実の真実はけっこうくだらなく、たいしたこともないものなのだと思う。というこれこそが概念で、では、真実の真実の真実とは????

 

もう、なにがなんだか分からない???

 

わたしはいつも、あなた自体ではなくあなたという概念を愛している。

しかしそれは誉められたことではないだろう。

わたしはあなた自体を通してあなたの向こう側を見ていて、わたしはあなた自体に触れながら概念にこそ触れている。

しかしその概念そのものが実体であるのだとすれば?????

それなのに、わたしはあなたがそこに存在しているように思える。

実在とは、いったい何なのか。

 

わたしには分からないことが多すぎる。分からないことばかり。なにかを分かったことなど、理解したことなど、手のひらに収めたことなど、これまでたった一度だってなかった。

 

わたしがキャラクターが好きなのは、それそのものが概念だからである。概念こそがキャラクターであると言えるかもしれない。

これは、きっと、事実だ。

わたしはキャラクターを愛でることで、思い切り、思いのままに、おもんぱかることなく、概念そのものを愛でることができる。

 

言葉は、概念だろうか。

言葉は、実在するのだろうか。

あるいは、概念とは実在するのだろうか。それとも、実在するということすら概念なのか???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????

 

 

 

 

 

 

 

 

ラスト・ステージ



これがさいごの一曲、という夢を見た

ひさしぶりにステージに上がった 学校の体育館のような場所だった

いくつかのバンドが一曲ずつ演奏してはステージを下りていった 皆これがさいごの一曲だった

ギターを弾くのは ステージに上がるのは これが最後なのだとなぜだかしみじみと分かった

 

やはりわたしのギターの音はちいさい あーあ 今ならうまく弾けると思ったのだけれど

曲はシロップのSonic Disoderだった

イントロのあの音が耳に染みる 

 

実際のところ、ギターは高校を卒業してからは一度もまともに触れていない

ステージに上がったのは、四年前の演劇の公演が最後だった

もう舞台にはあがりたくない あがらなくていい 似合わないから

 

 

 

もうすぐ母の誕生日だなあと思い出して、何を送ろうか考える

なにかものと手紙 いや手紙は誕生日より母の日なのかなあ

わたしはわたしなりの人生をしっかり歩んでいます、だから心配しないで、と思った
母にも言えないことはアホほどあるけれど、それでもわたしは後悔はしていないなあと思う

ああなあんか悪くない、と思えるのはきっとさっき薬飲んだからだ

ニンゲンってカガクだなあ

でもそうやって操作できるのならもうけもん 人間が精神的な存在じゃなくてよかった

物質的な存在でよかったと このときばかりは思う おもしろい 悪くない 悪くないよね そもそもわたしは人間の物質的なぶぶんにこそ救われてきた人間であるし 残念ながら精神的な部分は一切救われて報われていないけれど そのすべてを肉体で物質でカバーして それでなんとかやってゆけるのならば、まあそれもいいや いいのだ

 

堂々と話せることなんてほとんどないじんせいだ

墓場まで持ってゆくことのほうが多いじんせいかもしれない

でもまあいいや

いろんなひとに少しずつ関わって 少しずつ皆がわたしのだめなところを いけないところを知っているのかもしれない

けれどその人たちが一堂に会してわたしのことを暴露することは未来永劫ないでしょう

もしそんなことがあったとして わたしが人に言うのは 人とするのは 人と共有するのは

ほんとうは誰しもに知れても問題ないと思っていることだけなのだから そのほうがいいのかもしれないともおもったりするけれど

第一回なみちゃん会議

未来永劫行われることのない第一回なみちゃん会議

そのときわたしは少し自由になれるでしょう つまりそんなことは起こり得ない

ありがとうみなさま さようならみなさま

パレードは続きます

通勤電車で 遊んだ帰り道の電車で 不意に自分の飛び込むビジョンを見ながら勝手に体が動かないことを祈るだけの滑稽なパレード

愛しているこの人生を いやそれは嘘

川がかれるまで

 

ああ洗濯しよ けれど外は雨上がりの曇り空

 

 

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dilemmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmmma

 

はりねずみを飼う夢をみました。


昨年末ごろから今年初めまで、しばらくちっとも夢を見ない期間がつづき、アアもうほんとなんなの、夢みれないとかほんと生きてる意味ない、と思っていたのですが、ここひと月ほど、また夢を見るようになりました。いろいろな夢をみます。たのしいです。生きている甲斐があるというものです。

 

昨日は一日休みだったのですが、一昨日仕事が遅くなり終電を逃し、タクシーで一時ごろ帰宅し、そのままベッドに入って眠ってしまいました。化粧も落とさず、着替えもせず。ストッキングとブラジャーだけ脱ぎ捨ててそのままふかふかの布団に潜り込みました。無印の毛布にくるまれている時間は至福。一生まっぱだかで毛布にくるまれていたい。

 

人と会う用事があったので昼前に起きて化粧を落としてシャワーを浴びまた化粧をして出かけました。

数時間で帰宅して、そのままタイツとブラジャーを脱ぎ捨てて布団に潜り込みました。いつの間にか眠っていました。十二時間が経っていました。

 

 

夢を見ました。

ハリネズミを飼う夢でした。

 

小学生のころ、わたしはハリネズミを一匹飼っていました。まりもという名前でした。彼女はとても美形のハリネズミでした。

動物好きの父が、ハリネズミが飼いたいと言ったのがきっかけでした。動物が苦手な母は反対でした。金魚しか飼ったことのなかったわたしは喜びました。温かい生き物が、わたしは大好きでした。

五センチほどの大きさの赤ちゃんをペットショップからいただいて、ダンボールの箱に入れて持って帰ってきました。とってもとってもかわいかった。がさがさいっている箱の中の小さな存在感がわたしにはとても大きなものに感じられました。

結論、それからわたしはろくにハリネズミに興味を持ちませんでした。否、動物と接したことがほとんどなかったので、どうすればよいのかわからなかったのです。

まりもとの思い出は数えるほどしかありません。

まりもと過ごした時間より、ぬいぐるみのチョコとクリームちゃんと過ごした思い出のほうがたくさん覚えています。

世話はほとんど父がしていました。わたしと妹は、たまに、父の休みの日に父と一緒にまりもと遊びました。革のてぶくろをしてまりもを抱き合げ、ときに素肌でまりもの腹に触れ、その温かさを感じました。ゲージの外から、よく、じっとまりもを眺めていました。丸まって眠っているすがた。泡を針に擦り付けているすがた。ミルワームを噛み千切るすがた。

わたしは昔から動物が好きです。とくに愛玩用の小動物が好きです。なんだかとても愛おしくて哀しくてたまらない。わたしは愛玩用の小動物が好きだ。でも、どうしたらいいのかよくわかりません。接し方が分かりません。

幼稚園児のころ、園に集まってくる野良猫が愛おしくてしかたなく、むりくり撫でまわしていました。結果、わたしは猫アレルギーを発症し、それ以降ほとんど動物には触れていません。今はもう、どうやって触れればいいかもわかりません。代わりにぬいぐるみを撫でます。売れ残っているぬいぐるみ。家に連れて帰ったぬいぐるみ。かわいいね、いいこいいこ。君はよいこ。

 

夢のなかで、わたしは素手でハリネズミを愛でていました。針を立てられても、丸まった身体に指を巻きこまれても、わたしはちっとも怖くありません。痛いけれど、痛いだけ。力を入れなければ、拒絶しなければ大丈夫。わたしはここ十数年でそういうことを学んだのかもしれません。

 

まりもが死んだのを一番初めに発見したのは、ほんとうはわたしでした。

夜中、トイレかなにかで一階のリビングに下りてきてまりものゲージをふと見て、どうしてだか、あ、これはもしかして死んでいる、と気付いたのでした。

けれどわたしは何も言わなかった。誰にもなにも言わなかった。

翌朝起きて、母から、まりもが死んでいたことを聞かされました。わたしはなんといっていいか分からずに、無関心そうに、そう、と言いました。

金魚が死んでいるのを見つけるのも、家にどろぼうが入ったことを見つけるのも、いつもわたしが一番さいしょでした。けれどわたしはいつもそれを誰にも言わなかった。いつもとの違いに怯えて、ひとり身を縮こめていました。

あれは、わたしの罪です。わたしの小さな、けれど重い罪です。

 

まりもはたまにゲージを抜け出して、隣の部屋のぬいぐるみの下に隠れていたなあ。わたしはそれを見つけるたびなんだか泣きそうな気持になっていたのでした。

わたしがハリネズミだったら。わたしがハリネズミだったら。

 

 

 

 

 
 
 
 
 

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wag


お風呂にはいって、お気に入りのシャンプー、コンディショナー、石鹸を使って体中のあちこちを念入りに念入りに洗う。

シャンプーとコンディショナーはcocon superの青いやつとBOTANISTのサラサラのほうとマシェリとtamanohadaの04をその日の気分で使い分ける。石鹸は牛乳石鹸の青。

シャワーがずっと降り注ぐなか、じっと座り込んであちこちをごしごし洗っていると洗濯機のピーという音が聞こえ洗濯が終わったことを知る。慌てて浴室を出る。

洗濯物を干す作業がめんどうだ。でも後回しにするとしわがつく。

まず制服から手を付ける。一番しわになったら困るから。少し前まで制服は会社のクリーニングに出していたのだが、クリーニング室に寄るのがめんどうなのと、勤務帯的にクリーニング室の開閉の時間との折り合いが悪く、家で制服を洗濯するようになった。まっ白なので汚れが目立つ。ワインやソース、ボールペンで汚れた部分はウタマロ石鹸でごしごししてからネットに入れて洗濯漕に放り込む。

洗濯物を干し終えて、会社から夜食として支給された調理パンを食べた。近頃はめっきりパンばかり食べている。

 

 

 

 

最近どう? 元気? と聞かれると、わたしはいつもてきとうに「まあぼちぼち」と答える。

なにがどういった方面でどう? なのかちっとも分からないし、元気? と聞かれてイイエ元気ではない、とか言われても困る。こういう会話は往々にしてエレベーターの中などたいして時間のないときに行われるものであるし、マジで返事しておもしろくもなんともない話を長々聞かされても困るのである。

でもせっかくだからまじめに答えてみようと思う。

 

「最近どう? 元気?」

「恐らく一般的な尺度ではかるとわたしは<1228字削除 2017.5.9>」

真面目に答えるとこのくらいの長さになっちゃうから地下三階から四階の間までじゃ話しきれないよね。

 

 


そういえば今画面をのぞいていて、あー字が見えない、と思ってめがねをかけた。少し前に新しいめがねを作った。乱視用のめがね。JINSで6000円くらい。ディファインをやめた。カラコンももう一年くらいつけていない。

昨年まで裸眼で文章を打っていたって、そんなに見えねえと思うことはなかったのだ。それなのに、このパソコンをちっともいじらない一年で、なんでこんなに目が悪くなったのだろう。いや、たぶん視力は変わっていない、じゃあ何が変わったのか? よく分からない。

少し前よりずっとずっとキーボードが打ちにくい。手に馴染まない。いちいち打ちミスをする。由々しき事態。あーあ。ざんねんだなあ。

 

 

会社辞めてどうするの? と聞かれると思うのだけれど、元の生活に戻りたいのだ、というのが本当のところ。元の生活を続けるために選んだこの仕事であったはずなのに、おかしいなあ。やっぱりこういうものだよなあ。

毎日寝て起きて、いい夢も悪い夢もみて、文章書いて、うつくしいものをうつくしいと感じてそれを口に出すことができて、そういう生活に戻りたいってことがわがままだと思えない、というのがもうわがまななのだろうか。それをわがままだって言う人とは関わっていたくないよ。っていうこれはわがまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

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ねこかわいいかかわいいかわいい〜

食べたい


毎回最終回みたいな日記を書いているなと思う。はずかしい。

むだに感傷的だしじめじめしている。かっこわるい。でもたしかにわたしはいつも最終回の気分でいる。

わたしはいつもエンディングを見ている。そしてわたしはいつもそのエンディングにふさわしいテーマソングを探している。

あるときのそれはグレイプバインのEveryman,everywhereだった。あるときのそれはピロウズの白い夏と緑の自転車、赤い髪と黒いギターだった。あるときのそれはオザケンのラブリーで、あるときはアンディモリのlife is partyだった。

わたしひとりだけ、いつも勝手に終わりを見ていた。終わりとその先。終わりすら終わってしまうということ。

なぜわたしはこうも人から離れているのか、とたまに考える。さっぱり分からない。

基本的には、コミュニティに入れない。いや、なんとなくそこにいるにはいるのだが、コミュニケーションが取り合えないし、なんというか、そのはがゆさと気恥ずかしさと不満によって、自分が勝手にフェードアウトしている、ということはある、とおもう。

なにかの予防線を張っているのかとおもう。いや性格だともおもう。なによりきっと、人と交流する努力をしていないのだとおもう。

わたしはどこにいても渦中にいない。それはとてもざんねんなことだ。

 

 

自分のはてなのプロフィールを見てひいた。もう23さいでもなければ学生でもない。適正な値に変更しておいた。職業欄は空欄にしておいた。

 

自炊が適当になってきた。最初は火を使わないで素材をそのまま食べる、という段階があり、一時はレンジでチン、にはまり、麺類ばっか食べてる時期もあり、からの、めっちゃ炒めている期があり、今また素材そのままに戻ってきている。家に帰るといつもいい時間なので、ざくざく野菜を切ってマヨネーズとかつけて食べている。あと豆腐。豆腐に塩かけて食べてる。

こう聞くとめっちゃ健康的やねってかんじがするけれど正直なところ量が尋常じゃないしなんならお菓子とかもものすごく食べている。一時間は食べてる。朝も一時間以上食べている。わたしは食べ過ぎだとおもう。

 

左足の小指の爪が取れた。あるとき気付いたら既にほとんど剥がれていて、それから二日ほどですべて剥がれ落ちた。うっすらとその下に爪のような薄皮のようなものが生えていて、そのおかげかちっとも痛くない。ふしぎだ。

けれどこのせいで、ペディキュアが塗れない。

わたしは足の指が長く、ついでも爪も長い。なんというか、足の指って横長の人が多いと思うのだけれど、わたしのはきっと手と足を間違って生えてきたんだってくらい縦長で手のそれに近い。とくに小指のものはそうで、わりと、気に入っていたのだけれど、今見たら足の爪めっちゃ傷だらけだ。毎日わしわし歩いているからだとおもう。これからはこうやって足の爪を傷付けながら生きてゆくのか……それっていやだ。

 

こんな生活を送っていると、自分が何が好きで、どういう世界で生きてきたのかを忘れそうになってしまう。社会に出てお仕事するのもいいけれど、それだけは忘れちゃいけないよな。

大学の友達は貴重だとおもう。学部、院時代は、いままでよりずっと必死で、いままでよりずっと恥の多い、けれど実りの多い時間を過ごしたようにおもう。

一緒に美しいものをみて、尊いものについて考えて、自分の作品やひとの作品について本気で考え議論した時間や経験をわずかでも共有できたということは、ひどく貴重、で、なんだかそんな経験をできたことがうれしいし、もはや懐かしいし、戻りたいともおもう。でも戻れない。

 

家賃8万の部屋に住みたい。それから家賃12万の部屋に住みたい。そして家賃20万の部屋に住みたい。

夜景の見えまくるタワーマンションの最上階に住みたい。むだに装飾過多で華美なお城みたいな豪邸に住みたい。

いい家に住みたい。いい家に住みたいとおもいながら暮らす。いい家に住む夢を見ながら一生暮らしたい。

健康的になりたい。

パンがふかふかだとうれしい。肌触りのよいふとんでねむるとうれしい。バレエ帰りの女の子の頭頂部の髪の照り。

 

 

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風船ははたして何色だったか

 

仕事からの帰り道、電車を降り改札を出て、地上への階段を駆け上がる小学生を見た。

脚が長い。

すらと伸びた手足、バランスのよい身体、長く、しかし子供特有の痩せっぽちさはあまり感じられない美しい脚だった。

白色の子供っぽいショートパンツを履いて、キャラクターの描かれた薄汚れたピンク色のリュックサックを背負っている。身体だけが大人のようで、けれどなぜか小学生だと分かる。あれは中学生ではない。

わたしのより細い脚、わたしのより長い脚を惜しみなく晒し、彼女は階段を駆け上がっていった。

時刻はもうすぐ18時。家に帰るのだろう、とわたしは思う。走って帰ることのできる家に、大人のような小学生が走って帰る。これは、わたしの勝手な想像であるのだが。

 

あの子は将来どんな大人になるのだろうかと考える。

高校に入学したばかりのころにわたしが「このこは本当はカワイイ」と目を付けていた黒髪ノーメイクの地味な女の子たちは、卒業するころにはほとんど例外なくくだらないギャルになっていたことを不意に思いだした。

 


ランドセルじゃないんだな、と思う。赤いランドセルだったら絵になったのにと。ご都合主義の思考回路、そもそも赤いランドセルという記号がもはや死んでいる。わたしはダサい。

 

ランドセルといえばいつも思いだす。わたしは赤のランドセルを使っていたけれど一般的なツヤツヤのタイプではなく、艶消しで、色も少し落ち着いた臙脂のような赤色のものだった。

今思い返すととてもよいものなのだが、わたしは例のツヤッツヤピッカピカの赤色がうらやましく、また、二年生になるころには男の子に憧れ黒色のランドセルがうらやましくなり、このころからだんだんとランドセルを背負わなくなってきた。とてももったいないことをしたと思う。

 

わたしの両親、祖父母はとてもよい趣味をしている。持ち物や服装、食べ物や遊び。今になってよく分かる。けれど子供のころはいつも、周りと同じコドモっぽいチープなものが欲しくてたまらなかった。

 

小学二年生のころはわたしの人生至上最も女性性を嫌悪していた時期で、女の子らしい恰好をしたくなくて毎日ジャージを履いて登校していた。習字セットや裁縫セット、ナップザックなど、そういった学校で買うものはすべて男の子仕様のものを選んだ。

母は不可解に思っていたようだが、最終的にはいつも好きなものを選べばいいと言ってくれた。

男の子に憧れていた時期のわたしは、男の子がすべてのデフォルトなのだと思っていた。だから、男の子っぽく居ることイコール自然体、自然体で居ることイコール男の子っぽいことなのだと思っていたようだ。

前髪も伸ばしっぱなしにして、って、わたしはそういえば今も前髪は伸ばしっぱなしなのだが、あのころのわたしの顔を思いだそうとすると今の自分とそっくりで笑える。ちっとも顔が変わっていないし、ふてくされた顔ばかり浮かんできて困る。自分の顔を思いだすとき、頭のなかのわたしはいつもなにもかもに不満を感じ拗ねているような顔をしている。

極めてどうでもよいことだが今は毎日前髪を切りたくてしかたがない。前髪がほしい。自分の顔立ちには前髪があったほうがよい気がする。けれど仕事の都合上前髪は長いほうが楽。迷っている。

 

小学三年生になると、反動なんだかなんなんだか、真っ白いヒラヒラのスカートやフリルのついたオフショルダーのトップスなんかを好むようになった。男の子仕様のものを選ぶこともなくなった。前髪も切った。

露出が増えてくると母は、そういうのは大人になっても着れるし、と言った。わたしはその反応がとても嫌で、反抗するようにチューブトップを着てショーパンを履いた。

 


帰り道、コンビニに寄って、アマゾンから届いた金井美恵子の『愛の生活』とタンポンと無水エタノールとハッカ油を受け取った。気持ちの悪い組み合わせだと思った。

愛の生活は、あの人に貸している。もう何年も前のことだし自主的に返さないものを催促するのもめんどうだ。きっと本人は忘れている、とも思う。

今までもこうやっていくつもの本やDVDを手放したしいくつも同じものを買い直した。なんだかそういうもんだ、と思う。

ちなみにシアターテレビジョンで放送された大人計画の『エロスの果て』を録画したDVDはあの子に貸しているし、エロスの果ての戯曲はあの子の元彼に貸している。そのことを根に持って、まじでダラシないカップルだな、とずっと思っていた。彼や彼女のツイッターのつぶやきを見ていると、いまだに、ああなんだかだらしない人だなあ、ヨレヨレの毛玉だらけのスエットみたい、と思う。

かくいうわたしも何冊か人の本を持っている。

申し訳ない気持ちになるけれどなんかもうめんどい。もはや会うこともないひとたちであるし。けれどすべて覚えている。小学生のころよく遊んだあの子、大学に入って初めて付き合ったあの人、卒業制作で一緒に苦労したあの子。ごめんね。

遅くなってごめんねって早く返せばいいのになと自分で思う。何年ゴメンネと思っているつもりか。一生。

もうわりとナチュラルになにもかもがめんどい。いつもめんどい。もうずっとめんどい。

メールも二か月返していないしラインも今見たら27件溜まっている。認識はしてるんだけどな。

最近彼氏にもラインを返せない。

既読するのに二日、返信するのに三日かかる。これはもうだめなのだと思う。別れ方は、いつも同じだから分かる。

妹にだけは毎日ラインしている。母にもたまにはメールするようにしている。

 

家のそばで、電線に風船が引っかかっていた。

というと絵葉書のような風景が思い浮かぶがそうではなく、ひもはからまっているし肝心の風船だってしぼんでしょぼくれていて、でもそれがよいのだ、こういうのが真実なのだ、日常の風景なのだとわたしは思う。

なにより、その光景をみてまず思ったことは、あれってあぶなくないのかなー、いやあぶないよなー、ということだった。うつくしくない。

暮らしはうつくしくないが、それがまたうつくしいのである。とか思ってしまうのがうつくしくないのだが、それもまたひとつのうつくしさなのであった。(おおよろこび)

 

わたしは明日もスーツを着て仕事へ行く。あさっては休み。しあさってはまた仕事。

今思い直すと、冒頭の女の子のことは後姿しか見ていないのだが、なぜ小学生だと思ったのだろう。

雰囲気は小学生のそれであったが、小学生がなぜ月曜日のあの時間に電車に、と、思った、思い、けれどあれは小学生であるし、きっと家に帰る。

 

 

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