おやすみなさい

旧nikki desu

夢見るインターネットちゃん


 眠ることがなにより好きだと思う。ふとんの隙間でうだうだしている時間になにより幸せを感じる。
 夢をみることが好きだ。これもまた、わたしが眠ることが好きな一つの要因だと思う。今朝は、パスタを育成するアプリにはまっている夢をみた。夢のなかでわたしは一生懸命パスタを育てていて、わあこのパスタがペスカトーレになった、これはミートソース! と喜んでいた。バイト先の料理長がそのかたわらで本物のパスタを作ってくれていて、やさしい声で「もうすぐできるよ~」なんて言ってくれて、わたしはiphoneのなかのパスタをタップしながらほんもののパスタに香りにおだやかな幸せを感じていた。

 

 わたしが中学生になったころ、家ではようやくインターネット環境が整った。それからわたしはネットに熱中して、学校に行っている時間以外のほとんどすべてをパソコンの前で過ごした。中学生の三年間、わたしはほとんどネットしかしていない。
 小学生のころ、どちらかというといわゆる「リア充」的な過ごし方をしたわたしは、中学一年生の前半、なかばその流れを引きずっていた。手もつないでいない、キスもしていない彼氏と何度かデートに行ったりもした。けれどもわたしは楽しくなかった。なにかが違うと感じていた。元来口下手で引っ込み思案なわたしはたとえ彼氏だろうがほんとうのことなど口に出すことはできなかった。皆だって、おおむねそんなものだろうと思っていた。ほんとうのことはひとを、自分を傷つける。ほんとうのことなんて、表立ってはどこにもないって思っていた。
 その点インターネットはすごい。画面越し、誰ともわからない匿名性からか、ひとはそこでは様々な言葉を、感情をむき出しにしていた。
 なかでもわたしはひとが綴る言葉にはまった。一番わかりやすい形で言うと、それは日記だった。
 そこにあるのは文字だけで、内容が事実なのか嘘なのかは画面越しには検討もつかない。けれどそこにある言葉こそが真実なのだと、ほんとうのことなのだとわたしは感じた。内容が真実か嘘かなどという次元ではない。インターネットという場でそこにそのように書いてしまう、書かずにはいられないという気持こそがほんとうのものなのだ。
 誰にも知られたくない、けれど分かってほしい。どこかにいる誰かへ届けと人々は日記を書く。

 

 以前はてなダイアリーで日記を書いていたのは中学生のころだった。そのころわたしは毎日が嫌で、ほとんどなにも手に着かなくて、耳栓のようにイヤフォンをはめてベッドで丸くなりながら、インターネットを通して知った音楽ばかり聴いていた。それでも家族や数少ない友人たちの前ではふつうに過ごしていたつもりで、わたしの気持を知っているのはこの音楽たちだけだと本気で思っていた。
 そんな気持のあれこれを形にしようとわたしは日記を書いていた。誰にも言えないことを、それでも自分だけは認識していたくて日記を書いた。体裁を整えることはやめて、とにかくそのとき思い浮かんだことを文字にして並べた。ネガティブな言葉、いやな言葉、そんなものばかりが並んでいたことと思う。たまには楽しいこともあったかもしれない。けれどもやはり、毎日過ごすうちに、文章は乱れて、内容も卑屈になっていった。そのときはそれがほんとうのことだったのだからしかたがない。
 最後に日記を書いたのは、中学三年生の夏休みだったと思う。手が震えるものだからキーもまともに打てていなくて、重なったり変換をミスしていたりしている字をそのままにして、わたしはただ頭の中にある言葉を打ち出し形にした。
 それを、中学三年生の一月一日、わたしは心機一転と称してすべて消してしまった。そのことにはきっと、もういろんなことをあきらめていて、勉強だってほとんど手につかず、志望校にもきっと行けないだろうとたかをくくっていた。なんだかいろいろ通り越してすこしぼんやりとした気持になっていた。
 わたしはそのとき、ぼんやりとした視界のなかで、卑屈で、自分も他人も傷つけてばかりの鋭い言葉の数々を、むきだしの自分の気持を恥ずかしく思った。そうして日記を消した。わたしの日々を消してしまった。
 今思うと、なんと惜しいことをしたのだろうと思う。どうがんばったって、あのころの記憶はもやがかかったようになっていてほとんど思い出すことができない。そんな日々の記憶を、あのころの日記は担っていたというのに。
 二十三歳になって、十三歳、十四歳、そして十五歳だったころの自分を懐かしく思う。毎日やり過ごすだけで必死になっていた自分をいじらしく思う。あのころわたしがなにを見てどう思っていたのか、今のわたしが知ることはできない。

 わたしはそれから自分の携帯電話を手に入れて、そのころには絵を描かなくなっていたわたしはわざわざリビングで家族に見られながらインターネットを利用する必要がなくなり、今では手のひらにおさまるiphoneでほとんどのことを済ます。
 今パソコンをひらくのは、文章を書くときか、ipodに音楽を入れるとき、あとはデジカメの写真を整理するときくらいだ。

 

 ほんとうのことって、どこにあるのだろう。ほんとうのことって、いったいなんなのだろう。わたしは今もそればかり追いかけている気がする。
 わたしはほんとうのことが知りたくて絵を描き、音楽を奏で、舞台をつくり、小説を書いてきた。そのうち、ほんとうのことに触れることができるのなら媒体は気にならないのだと気づいた。私はただ絵を描きたいのでもただ音楽を奏でたいのでもただ舞台をつくりたいのでもただ小説を書きたいのでもなく、ほんとうのことが知りたいのだ。だから、ひとと接することも悪くないと今は思う。それでもやはり、文章は自分にとって特別なものだと思うけれど。


 
 ほんとうのことは、ある。今のわたしがそう思えるのはきっと、人々が絞り出すようにして、泣き叫ぶようにしてインターネットで綴った言葉のおかげだ。

 あのころに比べると、本名で登録するようなSNSも普及してネットの匿名性というものはすっかり薄れてしまっている気がするが、それでも一般的な利用の範疇で、本人が隠そうとさえすれば、未だにネット上での匿名性は保たれる。
 わたしは今でもブログが好きだ。Twitterなんかも大好きだ。そこには必死に生きているそのひとのほんとうの気持があると思っているから。