世間話のためのレッスン
わざわざ口に出すべきこと、というのが分からない。
「暑いー」とか「あれかわいいー」とかの意味が分からなくて、続きの言葉をいつも待っている。
「暑いからクーラーつけてくれない?」「かわいいからあれ買おうかな」なら分かるのだけど。
私はいつも「わざわざそれを口に出す切実な理由」(相手への欲求や意見)がそこにあると思っている。
ひとに聞くとそう言うのだけれど、ただ暑さを感じたから「暑い」と口に出す、ということが分からない。
意図なしの行為(意識・無意識に関わらず)の存在が信じられない。
だから、ただ暑くて「暑い」と言ったところを「暑いから近づくな」とか「暑いのになんでクーラーついてないの? 察してよ」とか解釈(曲解?)したりして卑屈になる。
そこに「共有」というキーワードがあるということが分かってきた。今までぜんぜん分かっていなかった。
ひとは感覚や情報を共有するために言葉を発するという側面もあるのだなあ。
寒いねと話しかければ寒いねと答える人のいるあt(省略)というやつ。
私には共有するという概念が薄い。
人と分かり合いたいという欲求はあるのだけれどその最果てだけをただ見つめていて、そのための「共有する」という通過点は見ていない。
「感想」っていうのが難しい。
映画を見て、本を読んで、ライブに行って、多くのひとは感想を公開→共有しているようなのだけど、わたしはじっと自分の中に蓄えてしまう。おいしいお菓子を独り占めする子供みたい。
言語化しないので明確でないし、いざ人に伝えなければならない場面でうまく表現することができない。
たまに、制作をやっているひとの感想上手におどろく。合評とかしてるからかなあ。あと先生のなかでも、ものづくりの方を専門にやっている先生はそうでもない場合も多くて、評論を専門にやっている先生は当然なのだけど圧倒的に感想上手。
ものの見方、捉え方、租借し方、消化し方のテンプレートのようなものがあるのかもしれない。
それを学べばわたしも感想上手、とまではいかなくとも感想下手から脱出することができるやも。
感想すら難しいわたしは無論世間話がとっても苦手。
バイト先ではお客さんと世間話しているけれど、たいがいお客さんが勝手に喋っている。わたしはほとんど聞いて、あいづち打っているのみ。
あと、喋ることが第一の仕事ではなくお酒を作るのが第一の仕事だからそっちさえまじめにやっていればマア、というところもあると思う。気分的に。
わたしが考えすぎなのは分かっていて、思ったことをぜんぶ言えればいちばんいいのかも、と思う。
だから、日記もこれのひとつの訓練なのです。世間話のためのレッスン。
本当は言うまでもない、どうでもいいって思っていることをたくさんたくさん書く。
しかしながらツイッターとかひとり言系はまったく問題なくつぶやけるのだからやはり対人というところなのだよなあ。
実際にひとを目の前にすると、やっぱり「失礼かも」「傷つくかも」「不快になるかも」とか考えてしまう。
どこに地雷があるか分からないから最大限考慮しなきゃと思っちゃう。
ひとと分かり合えるまでの道のりは長いよなあ。
相互理解の夢ばかり見ている。