おやすみなさい

旧nikki desu

軽い存在

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人の家に泊まったり旅行に行ったりすると、ものや人の存在の軽さを感じる。

酔って、終電をなくして、そのまま友人の家に泊まる。シャワーも浴びずに化粧だけ落として眠って、朝起きてみると部屋のなかで服が一枚ぺろんと干されている。服ってたいしたことのないものなのだな、と思う。

そういえばこの子の服は存在感が小さい。おしゃれな、流行の服をいつも着ているし、ブランドもののバッグを持ち歩いているけれど、それは彼女の肉体の付属品でしかない。肉体の存在感に比べればなんてことはない、ただの布のつなぎ合わせ。その肉体すらも軽い。あっちへうろうろこっちへうろうろし、ただ眠るために家に帰ってくる。少し眠ってまた街へ出る。

彼女の存在は軽い。

わたしはこの軽さがうらやましい。友人の家で目覚め、いつもはシャワーを浴びていない時間にシャワーを浴びると、自分が少し自由になれた気がして、体が軽くなったように感じる。

どうしようもない二日酔いで道端に胃液を吐いても、体は軽くて気分は悪くなくもない。(しかし体調はとても悪い)

わたしが家(生まれ育った家)にいると、この家のなかにあるなにもかもはどっしりと根を張ったものに思う。

ていねいに洗濯されきちんと一枚一枚しわを伸ばされアイロンがけされた服たち。大きな箪笥に収納された服たち。

母の子、父の子である私、妹の姉である私。

服一枚を選ぶのもおっくうで、たいそうなものを身につけているという感覚がある。わたし自身すらもたいそうなものに感じてしまう。そんなことはないのに。

わたしはは根無し草になりたい。もっと軽くありたい。重さ故にベッドのなかから動き出せずにいる。

散らかった化粧品やお香の匂いが染みついたタオル。誰のものか分からないたくさんある歯ブラシ、いつか必ずここからいなくなる部屋。そういうもののどうしようもない存在の軽さがうらやましい。

 

24時間、地続きの生活、ひとつながりの生活!

一生終わらない暮らしてゆくということ。たいへんだなあ。しんどいだろなあ。

わたしは家に帰るとすべてリセットされる、すべてオフになる。おふろに入ってベッドに入って、ハイさよなら今日のわたし。だから目覚めたときはいつも生まれたてみたいな気分でいる。ぐずってぐずってしかたがない。

東北から京都に出てきて一緒に演劇を学んで、今は東京にいる友人が「実家から大学に通っていたら、わたしはこんなに必死になっていなかったと思う」と2、3年前に言っていた。そういうことかもしれない。

皆、ひとりの人間として、自分の責任で自分の生活を送っているというのに。

 

毎日毎日ありがとうございますここまでしていただいてスミマセンと思いながら過ごしている。栄養の考えられた手作りの食事、清潔なリビング、理想的な家族。そういうもののすばらしさやありがたさはじゅうぶん感じているけれど。

響のボトルは24時間、24節気を象徴して24面カットなのだって。響のボトルでかくて持ちにくいんだよ、と思っていたけれど、少しいいなって思った。

24時間が、24節気がずっとぐるぐるしてゆくのだなあ。わたしもそうなりたいなあ。