おやすみなさい

報告は以上です

わたしの写生活動


KYOTO EXPERIMENT 2014がそろそろ終わる気がする。

始まった年からずっと何かしら観ていて、数年前にはほぼすべての演目を見たりしたけれどここ数年は舞台芸術に拗ねていたのでなかなか劇場に足を運びもせず。今年も悪魔のしるしの『わが父、ジャコメッティ』と地点の『光のない。』のみの観劇です。観たいのもっとあったけど全部見たときの値段と時間を考えてやめてしまった。維新派も、たかい! とおい! と思ってそれ以来考えるのをやめた。もったいなかったかもしれない。でも維新派ひとりで観に行くのってなんだかさみしいよね。

お金がないとか時間がないとかで舞台を観れないのはほんとバカだと思う。一食二食削ってでも観る価値のあるものだと思う。でももはやそこまでの情熱がない。わたしは別にお金に困っているわけでもないし実家に住んでいるのだから食べるのに困ることはない。時間だって、バイトを削れば作ることができる。なのに、何に急きたてられているのか分からないけれど、お金も時間もない、と思う。いつもわたしは時間がない、と焦っている。焦って、必要なものまでスルーしている。

舞台を見ていないことに罪悪感を感じるのも意味不明だし嫌だ。でもそう思わなくなったらほんとうに終わりだと思う。芸術から離れてしまう。わたしは舞台をやっていたから舞台だけれど、映画でも絵でも音楽でもそうなのだけど。

わたしは天邪鬼だから働き始めて芸術から遠ざかるときっと劇場に足が向くようになる。

 

『わが父、ジャコメッティ』は、父を乗せた車を押すときに軋む車輪の音が赤ん坊の泣き声にしか聞こえないところ(音響なのか?)、父が持つ太鼓の取っ手の金具が軋む音が赤ん坊の泣き声にしか聞こえないところ(音響なのか?)、父子の連弾、が印象的だった。ジャコメッティは興味深いけれど、ジャコメッティより父と子のやりとりが重要だったのだろうな。

マティエールによって写生は失敗するが、対象を見た映像だってそれそのものではなく電気信号に置き換えられてしか感じることができないのだから、仮に、真の対象というものがあってそれを捉えようとすることが写生ならば、写生はマティエールによって成功するとも言える。

また、日記というものも一種の日常の写生である。文章にもマティエールはきっとあって、できごとや感じたことを言葉に置き換える時点でマティエールの悲劇は発生しているのだけれど、さらに文体というマティエールも存在している。しかしこれにも同じことが言えるのではないか。そうだと信じているから人はわざわざ日記を書く。

 

日曜日は地点を観に行く。

京都の演劇界はせまくて、劇場に行くと必ず知っている人に出会うのが嫌だ。今回のように大きな演目でなおかつ上演回数が少ないともうあっち見てもこっち見ても知り合いだらけで、ずっと、顔を伏せて歩いた。地点はたぶんもっと顔を伏せて歩く。



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