おやすみなさい

旧nikki desu

アンチ・アンチ

 

子供のころから、ヒーローよりヒールが好きだった。主人公より脇役が好きだった。

今になって考えると、それはこれまでさんざん語っているようなヒールの哀しみがあると同時に、美しいものより醜いもののほうが多様性に富み想像の余地があるからだと思う。

よく言われることではあるが、美は狭いが醜は広い。

だから、芸術も醜、汚、歪を描いたものには多様性と自由がある。一方、美、聖はある程度固定化されている。これらは言葉の表現に顕著だ。醜いものを表現する言葉に比べて美しいものを表現する言葉はある程度出尽くした感がある。

と、ここまで言うと、醜の芸術いいじゃんみたいなニュアンスになってしまったが一概にそうとも言えず、視点を変えるととかく美は圧倒的なんである。言葉すら必要ない、ということかもしれない。そう考えるとやはりどちらも捨てがたい。

 

似たことで言うと、キレイは狭いがカワイイは広い。「キレイ」は客観的だが「カワイイ」は主観的。カワイイは歪なキレイではないかと考える。その歪みの許容範囲によって、その人なりのカワイイの範疇が変わってくるのではないか。

 

これまたよく知られた話に、その種族の平均的な顔がその種族において美人とされる、というものがある。美の基準が平均値なのだとしたら、「モテ」が凡庸、無個性になるのは至極当然のことだ。

個性至上主義の連中(「私って変わってるって言われるんですけどそんなことないですよね~?」)は「モテ」を非難するときには鬼の首を取ったように「個性がない」「量産型」などと言うが、そもそも彼女らは個性的であることを至上のものとしていないのだから同じ土俵にすら立っていない。むしろ平均を、ふつうを求めているのだから、皆同じになるのは喜ばしいことである。これを理解するべき。そうしたら戦う気も起らないはずなのだけれど、個性ryは目ざとくモテを非難する。その時点で個性ryは相手の土俵に入ってきた侵入者であり無条件で退場願いますなのだけれど、

とここまで想像で書きましたが別に個性ryがモテを非難している現場って一般化して言えるほどは目にしたことがないなと気付きましたゴメンネ個性ryの人。

 

こういう話をだいがくですると「やっぱり皆同じ髪型、同じ服ってダサいよね」「やっぱ個性がないとね」みたいな結論になってしまった。え、そこ!? という気持ちと、まだそんな個性ryみたいな人いるんだ!? という気持ちになった。驚いた。ふくざつだった。わたしは両方できてシチュエーションによって使い分けられたほうが圧倒的にいい(本人的にも周囲的にも)と思うのだけれど。

また、さっきの話だと美人であればあるほどモテるということになってしまうがそうとは言えないのが人間の複雑なところである。

「美」の値が増えてゆくと、伴って「冷」の値も増えていってしまう。あまりに冷だと人は近寄りがたいので、ある程度の熱を取り入れるために歪さが必要になってくる。「残念美人」が愛されるのはこういう理由ではないか。

 

わたしはカワイイという言葉がとっても好き。

カワイイという言葉が広いが故に他の表現を食べてしまい思考停止に繋がるという見方もあるけれど、なんだってそうなのだけれど、思考停止している人がばかなだけじゃん。そうじゃなく取捨選択してカワイイを使っている人はたくさんいるでしょう。

それよりこのカワイイという言葉の広さと歪さと主観性を愛でたい。

 


わたしアンチのアンチ活動みたいなことを頭のなかでずっとやっているのだけれど、そもそもの地盤が他人とずれていてはそれは成立しないし、その可能性がなくもない可能性があるので、その可能性とやらをどうやって確かめどうやって否定すればいいのかずっと考えあぐねている。



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