おやすみなさい

日記以上の意味も価値もない

わたしは液体

あたらしいハイヒールをおろした。まだかたい靴の形、寒さでよりかたくなった靴に足をねじ込む。

あたらしい靴を履くとき、いつも纏足を思い出す。ことハイヒールについてはそのイメージを持つ人も少なくはないだろうと思う。けれどこれはわたしが選んだ靴なのだから誰にも文句は言わせない。靴が合わなくてかかとから血を流すのもわたしの選択、そういうイメージのあるピンヒールを履くのもわたしの選択。

けれどそうして何度もかかとから血を流すうち、こんどはハイヒールのほうがやわらかくなり、わたしの足に馴染んでくる。そうしてようやくハイヒールを履きこなすことができる。けれどハイヒールというものは脆いもんで、そのころには底のゴムが擦り切れたり、ヒールに巻かれた素材がはげてきたりする。修理できることもあるし、どうしようもないこともある。そしてまた新しいハイヒールを馴染ませはじめる。

ギターを弾く人の指の皮が硬く厚いように、わたしのかかとの皮膚もまたかたくあつい。赤ん坊のようなやわさ、清さはないが、わたしはかかとから血を流しながらハイヒールを履く女性を魅力的だと思っている。

わたしの美意識が、わたしの意志が、他者の文脈に回収されることをわたしは断固として拒絶する。

 

言葉にすることは、言葉以外を諦めることでもある。それをも受け入れよう。そして選択する。

言葉は意志だ。選択だ。意味そのものだしイメージの権化でもある。形を決める。自分で決める。

言葉にすることは型に嵌めること。本来かたちのないものである感情や状態、関係性に名前をつけることの功罪。どちらにせよ名付けには力がある。名前によって感情や状態、関係性は変化するだろうか?

言葉はいれものではないか? いれものによって中身は変動する? するものとしないものがあるな。ではそれは何? 液体ならば、する。固体ならばしない。わたしは液体か? 液体かもしれない。わたしはわたし自身すらもいれものによって、名前によって変化すると思っている。そうしてそのいれものが、名前がすべてなのだと思っている気もする。

「どう見るか」「なにとして見るか」。それは芸術の出発地点でもなかったか。

自分が変わる必要があること、それを窮屈だと感じる人がいることも理解できる。そういう人は固体なんだな。

わたしは液体。

むしろわたしは、積極的に型にはまりたがっている、名前をつけてほしがっているのではないか。それは一時的な、仮のものに過ぎない。わたしはわたしの本質は変化しないと知っている。

どうだろう。

傷つき血を流したかかとが強くなり、ハイヒールもまた足になじんでくるように、言葉や名前もきっとそうなのではないか。

まだ名前のないもの、茫漠としたなにか、をそのまま放置しているというのはどういうことなのか? ぼんやりとあるイメージ、というのは、ない、のと何が違うのか? なんだか宇宙みたいだ。

あゆみよること。今既にある型に、あるいはみずから型を見出し、まずはそこに自分を沿わせてみること。なんにせよそこからはじまるのではないか。これをわたしの、世界との折り合いのつけ方とする。

 

 

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