おやすみなさい

旧nikki desu

とろとろ(不定形は笑う

 

雨に降られて、もう帰るだけだしと傘を差すことも諦めるととたんに気持ちいい。自己が解放され自由になれた気がする。冬の日の朝、もうふにくるまってうとうとしていると、このまま溶けてなくなってしまいそうだ。幸せ。目が覚めなくてもいい。

 

不定形は笑っている。ゼリーはぷるぷる笑っている。アメーバもとろとろと笑う。

また、笑い自体も不定形で無為である。笑いによる波及効果はある。しかし笑いそのものは無為である。笑いの引き起こす横隔膜の痙攣や頬の筋肉の動きは身体にとって何の意味もない。

笑いというものの実体はどこにもない。では笑いの本質はどこにあるか。それは「何者でもなくなる一瞬」である。自己という形がゆらぎ、ゼロになる瞬間。

 

私達が擬音語や擬態語を用いるとき、そこには共感覚がある。文芸においてその共感覚は重要な意味を持っているだろう。

 

生まれたばかりの自己と他者(世界)の区別のついていないそれこそアメーバのような段階から徐々に自己が形作られ、大人になってゆき更にそれが強固になるにつれてアメーバ的な「笑い」というものからも遠ざかってゆくというのはなんだか分かるような気がする。大人は固いもの。形のあるもの。それ以外は大人「のようなもの」。

けれども笑っているときだけは大人も子供もある意味ゼロの状態に戻る。それは一緒。なんだか平和。幸福なかんじ。

 

そう考えると、アメーバから遠ざかるということはなんだか残念なことに思えるのだけれど、そのアメーバから遠ざかり切り離され対峙することによって初めて「共感覚」というものを獲得するような気もする。やはり言葉は理性的なもの。

 

私達は幼いころ失ったアメーバ的感覚、万能感のある幸福を再び得るために自己と他者の境界をあやふやにすることが必要だ。そのために共感覚すらも駆使しながらセックスを行うのではないか。

 

自己と他者(世界)の境目が曖昧になり、空間の中に自己がとけてゆく感覚。

それは自己が形づくられた確固たる一個体ではなく、アメーバに飲み込まれ、ただの名もない何かになること。自我を捨てアメーバという一つの共同体に溶けゆく快楽。

キーは水分、あたたかさ、溶けること。

 

ということで、至上の幸福、至上の快楽は雨降る日に部屋のなかで毛布にくるまりセックスをすることに正式に決定しました。ありがとうございました。

 

 

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