おやすみなさい

報告は以上です

告白のされかた/ラブレターのよみかた

朗読について。

 

わたしは小説を、作者から「私」へのひみつの手紙、ラブレターのように思っているので、朗読というのは、なんだか送られたラブレターをお母さんに取り上げられて「読んであげるね^^」って音読されているみたいなかんじがする。おせっかいババアかよって。

 

読み聞かせとか、朗読とか、子供のころから恥ずかしかった。「施されている感」「与えられている感」がきもちわるかったというのと、この人(朗読者)はなんでこんなことやっているんだろうと思っちゃうから。

 

朗読者(読み手/語り手)の意図というのがまずよく分からない。読み手の自我みたいなものを感じてしまってきもちわるい。ひどくグロテスクに思う。

そもそもわたしが演劇を離れた一番大きな理由が、目で追ったテクストと耳から与えられたテクストは全くの別物だと判断して、テクストを文字で編むからには目で追ってほしい、という理由からなのだから、テクストとして既に在るものをわざわざ音読するという行為の意味が不明。

いいように考えてみると「この作品を紹介したい」ということ(「ナビゲーターになってあげよう^^」)かなとも思えるけれど、じゃあ「この作品超いいよ、読んでみてよ」って言ってくれれば十分だし、似たような別物与えられてもこまる。

悪いように考えがちなわたしは「私の美しい声、歌のように流れる声を聞いてほしいの」とか思っているのでは、とすら思えてきてしまうからこまる。こまってばかり。

 

作家本人によるポエトリーリーディングというのはまだ分かる。目で追ったテクストと~の問いを無視すれば。それは単なる告白と同じようなものなのだから。個人的にはやっぱり他者と一緒にそれを聞くのは気恥ずかしいのだけれど。

 

小学生の頃、国語の本の音読が妙に上手い子、というのはかならずクラスに何人かいた。

わたしは得意げに情緒豊か「風」に物語を音読する女子(なぜか女子が多かった)が苦手だった。要するに音読は呼吸のリズムと音声の抑揚で美しく体裁が整うのだからそれさえ分かっていればあとはかんたんなのだけれど、わたしはあの女の子たちと同じに思われるのがいやで、自分に音読の役が回ってきたときにはわざと棒読みで読むようにしていた。

 

ちなみに演劇のなかに現れる「語り手」はわたしは大好物なんです。あれは「本人役」なわけだから。

朗読の語り手がきもちわるいのは、本人ではないのに本人ぶっているから、あるいは、ナビゲーターぶっているから。

 

 

 

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