おばけ
あ〜〜なんかさっきから虫飛んでる〜きになる〜って思ってたらとなりの男子の腕時計が反射しているだけであった
おい
わたしですね結構もうぜんぶ受け入れ態勢ととのっているというか、抵抗とか、あんまりないから、どうなっても生きていけるなっておもうの
でもその反面、とつぜん、アーーだめだもう死ぬしかない死のうそうだ、京都に行こう、じゃなくて、そうだ、死のう、名案だ、というかそれしかない、じゃどうやって死のうか、て考えるときもままある
なんなのか?????
このギャップ??????????????????
冷静に考えることのできるときはだいじょうぶなんですよねきっとね、
理性で考えられるうちは
わたしはなんちゅーかけっこう、いやかなり、ばかだ
とても
ひらがな好きだし
きょうなにしたかなあ、といつも考える
たいがいたいしてなにもしていない
きょうは、8時に目を覚まして、薬をのんで、もう一度ねて、10時に起きた
そのまま気づいたら12時を過ぎていたので(寝ていた?)顔を洗って服を着替えてでかけた
電車にのった
二度ほどつまづいてよろけた
ころばなかったので御の字
・郵便局でゴーゴーボーイズゴーゴーヘブンのDM先行振り込み
・銀行で通帳印字
・通院
・牛乳買う
・ベルト買う
・スマホケース買う
・レシート整理して大まかな収支把握
・LINE返信
・Facebookを開いてあわよくばメッセージに返信
・スマホメアド決めて送信
・メアドで登録しているサイト等設定変更
以上本日のミッション
結果、郵便局○、通院○、牛乳○(じゃがいもとえのきも買えました)、レシート○、LINEは妹と院の友達と知り合いのおっちゃんには返信した
あと返信のこってるの、一回だけ飲みに行った男の子、三回くらい飲みに行って羽毛布団くれた知り合いの知り合いのおっちゃん、会社の上司、元彼、元バイト先のお客さん、大学の友達、高校の友達、計22件
Facebook開くも三月のメッセージに返信できず
ベルトとスマホケースは気に入ったものがない
atmで通帳印字してたら通帳いっぱいになっちゃって時計みたら3時4分、はい残念窓口間に合いませんでした、げんじつとはざんこくだね?(えいんと)
そうえいばそういえばわたしでぃるあんぐれいの曲だとエイント〜がすきなんだよねどおでもいいのだけど
なんか↑の友達がよくカラオケで泣きながら歌っていたから
あと〜あと〜めあどは決めていない=送れない&設定変更できない
あしたはなにをするだろう?
むかしは祇園で友だちとすれちがうのが好きだったけれど今はもうほとんどだれにも会いたくない〜〜〜〜〜〜〜〜
こうやっていろんなものをせおってゆくんですねえにんげんってねえ
ほんとは豊かなことなのだけれどねそれって
失いたくないものがいっぱいデキましたってことでショ
だからいまのわたしにはできないことがいっぱいいっぱいいっぱいいっぱいある、ざんねんだなあ、おもしろくないなあ
ってこれも勘違いなのだ
ほんとはたいしたもの得てはいないというのにさ
なんだって捨てちゃえばいいのに
流行ってんでしょ断捨離とかミニマリズムとか
わたしは収集癖あるからなんだってなんだってだいじだいじってしちゃうんだ
集めちゃって重くなってあきらめる、もういいやってぜんぶばらまく
やな癖
つまりこれがギャップの正体
つまんないの
わたしが一番嫌いな街は、京橋
一番好きなひらがなは、ん
ぜんぶ新しくなる
ねむたさと赤の爪
なぜこんなにもねむいのか、や、眠り続けることができるのか
踵なき世界と憎しみのゆめをみていた
さくらんぼチェリーさん
ゆめゆめ
真夜中のなみちゃんは夢の中にログインしました
わたしはありとあらゆるものの概念を愛しているに過ぎなく、それそのものは愛しているどころか激しく嫌悪しているのかもしれないと思った。
その代表的なものが人間であって、わたしは人間という概念はひどくいとおしく感じるけれど、人間そのものには、むらがあるし、汚いし、どこかでかならず嫌悪感が沸く。しかし概念はそれ混みでいとおしく、愛らしい。
概念とはきっと霞のようなものだろう。
霞を食っては生きていけないと言うが、わたしはきっと霞を食って生きている。
あるいはわたしは生きていたことなどないのかもしれないし、もしかすると、仙人なのかもしれない。
また概念的な話になった。
わたしが人とほんとうに交わることができないのはこういうことが原因なのかもしれない。
それとも、人というものは皆こういうものなのだろうか。
そうだとすれば、人間という概念そのものが崩れることとなるし、人と人との交わりとは、いったい????
人間が、精神的な存在でなくてよかった、とよく思う。
人間は物質であり、薬が効くのは、食べ物が必要なのは人間が物質的な存在だからである。心理的な存在でなく、科学的な存在である、とも言えるのかもしれない。
もしくは、概念的な存在でなく、実際的な存在である、とも。
いや、しかしここで観念という言葉を持ち出してしまうとこの話自体の意味がさらにややこしくなってしまう。しかし実際のところはそうなのかもしれない。実際という言葉を今用いたことで自体はさらに深刻になってしまった。
人間は、触れればたしかにそこに肌触りや体温がある。
しかし、肌触りや体温すら、脳の信号でしかなく?????
わたしはほんとうのことが知りたい、真実が知りたいといつも考えているけれど、となると、わたしは本当という、真実という概念が知りたいだけで真実などちっとも知りたくないのではないかとも思える。
きっと真実の真実はけっこうくだらなく、たいしたこともないものなのだと思う。というこれこそが概念で、では、真実の真実の真実とは????
もう、なにがなんだか分からない???
わたしはいつも、あなた自体ではなくあなたという概念を愛している。
しかしそれは誉められたことではないだろう。
わたしはあなた自体を通してあなたの向こう側を見ていて、わたしはあなた自体に触れながら概念にこそ触れている。
しかしその概念そのものが実体であるのだとすれば?????
それなのに、わたしはあなたがそこに存在しているように思える。
実在とは、いったい何なのか。
わたしには分からないことが多すぎる。分からないことばかり。なにかを分かったことなど、理解したことなど、手のひらに収めたことなど、これまでたった一度だってなかった。
わたしがキャラクターが好きなのは、それそのものが概念だからである。概念こそがキャラクターであると言えるかもしれない。
これは、きっと、事実だ。
わたしはキャラクターを愛でることで、思い切り、思いのままに、おもんぱかることなく、概念そのものを愛でることができる。
言葉は、概念だろうか。
言葉は、実在するのだろうか。
あるいは、概念とは実在するのだろうか。それとも、実在するということすら概念なのか???????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????????
わかるってことがわかんない
— 真夜中のなみちゃんヌ (@mayonakanonami) 2016年5月3日
言葉って、文字って確かに在るけど、わたし触ったことない
— 真夜中のなみちゃんヌ (@mayonakanonami) 2016年5月3日
うさぎとかはりねずみは触ったことある
— 真夜中のなみちゃんヌ (@mayonakanonami) 2016年5月3日
ぬいぐるみは、確かに在るし、触ったこともあるし、所有もしている。消費も pic.twitter.com/MHzGAx4A3v
— 真夜中のなみちゃんヌ (@mayonakanonami) 2016年5月3日