おやすみなさい

旧nikki desu

羊数える


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ここ一週間は、こんなかんじでした。
しばらくこんな感じが続くこととおもいます。
なんにせよ、毎日五時半起きはきついしはやく一日十二時間寝れる生活にもどりたいし小屋入りとか搬入とか集団作業していると一日に三回は猛烈な孤独に襲われてもう死ぬしかない……となるので塩辛いです。
でもがくせいさいごだからがんばりますまる。
がんばりますまる!







墓穴掘り

 

■■ ■■先生

 

 

返信が遅れてしまって申し訳ございません。

ご連絡、ありがとうございます。

率直なご意見、また、とてもありがたいお言葉をいただけ、非常にうれしく思っています。

少々長くなってしまいますので、お時間のあるときにでもお付き合いください。

 

 

「■■■■■■■■■■■」という言葉に関しては、おっしゃられる通りだと感じます。しかしきらきら、という言葉の軽薄でチープな響きや、きらきら、という表現の「甘さ」、また、甘い、という言葉の持つ「甘美な」そして「厳格でない」という意味の二重性を考えると、現段階ではそれ以上にしっくりとくる表現が思いつきません。このあたりがまだまだ勉強不足であると感じます。もっと相応しく、また独創的な表現を追求してゆきたいと考えています。

 

また、つなぎの文章に関しましては、私自身少々捻りが足りないというか型にはまっているかなとも感じていました。

しかし、それはそれでいいのかもしれないとも思っていたのです。二、四、六のものは、特にそうです。

「■■■」では、「あのころ」、そして、あのころ、と口にするときの甘やかな郷愁のようなものを描きたいと思っていました。

そのため「■■■」でキーになっているのは「記憶」と「終わり」です。メインになっている三本の短編は、端的に言うと「記憶」と「その記憶の余韻」=「思い出」を描いたものでした。

一方二、四では、「記憶の終わり」を描きました。そこにはもう記憶の余韻すらなく、あのころへの郷愁もなければ、あのころと口に出すこともありません。そこには「思い出」、物語はもうありません。

ただ、六に関してはもっと作り込むことができたと感じています。

 

口頭試問の席で、先生方が、〇、一、九の語りはマクベスの三人の魔女のようだとおっしゃられました。たしかにその通りだとわたしにも感じられました。しかしわたしはそれをあえて、「亡霊」と呼びたく思います。

 

タイトルの「■■■」という言葉は、■■■■氏の作品「■■■■■■■■■」に登場する「■■■」という概念を引用しています。

「■■■■■■■■■■■」もまた、街と街に集う若者、そしてその時代を描いた作品でした。

■■■、一言でいうとそれは、「どこにもない理想郷」です。「欲望それそのもの」であるとも言えるかもしれません。

人生の中で誰しもが一度出会えて、そして必ず終わってゆくなぜだか無性に輝かしい時間、ひとはそれを「青春」と呼ぶのだと思いますが、その時間と、なにかを求めてひととき訪れ、そして必ず家に帰ってゆく「街」という場を掛け合わせました。

「■■■」では、スポコン漫画に出てくるような分かりやすい形ではないですが、たしかに青春を描いたのだと感じています。そしてその青春の時間を過ごす女性を、私は「女の子」と呼んでいます。だから「■■■」は女の子たちの物語であることは間違いありません。

女の子たちは、なぜでしょうか、皆自主的に女の子であることを「卒業」してゆくのです。「もういいとしだから」「いつまでもこんなことしてられない」。誰に言われたわけでもないのにそうして自らして女の子であることをやめてしまいます。それはさながら「女の子」の「自殺」です。

 

ものを書くという行為は、思い出や記憶をひとつひとつ埋葬してゆくことだと常々感じます。

埋葬したつもりになって、けれど成仏しきれないもの、それが亡霊です。

彼女たちもまた、女の子であった自分を殺しかりそめの大人の道をゆきます。

人(ここでは女の子、ですね)が街を欲するのは、街にはやはりそういった女の子をやめてしまった女の子たちの女の子の部分の亡霊がうようよしていて、それに感電するからなのではないかと私は感じるのです。

 

八において、お分かりかと思いますが、この語り手の女性は三の■■です。■■もまた、時を経て、青春時代とその郷愁を忘れかけています。

さきほど、二、四には思い出も物語もないと書きましたが、それでいいのです。それこそが、生きてゆくということ、暮らしてゆくということなのだとわたしは感じています。

わたしの制作テーマは「生活を続ける」です。「生活が続く」ではなく、続ける、のです。このお先真っ暗な世の中にあって、自ら暮らしを続けること、暫定的にその営みを選択することに価値があると感じています。

楽しかったことどころか悲しかったことすらも忘れてゆきなにもなかったことになってしまうのはどこかさみしいことに感じられますが、そうしてでもこれからを生きてゆくことが尊いのだと信じています。

 

思っていたよりずいぶん長くなってしまいました。

おっしゃられる通り、次は中編を書くつもりで準備を進めています。

また機会があれば、ぜひ読んでくださいね!

まだまだ寒い日が続きますので、風邪など召されぬようお気を付けくださいね。

それではまた。


■■ ■■

 

 

 

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どん兵衛

おとついは学部の合評へ参加した。きんちょうしてでも作品をほめられたのでうれしかった。わたしは作品をほめられるのがいちばんうれしい。

うれしくなると肯定してしまう癖があってはずかしくおもった。自分の作品にかんしては自分が自分の意見を堂々と貫かなければとおもった。どうでもいいことではないとおもった。おもってばかりだった。

うれしくなったついでに、ほぼ初対面のひとたちのなか打ち上げまで参加してしまった。

参加したついでに先生方だけの二次会まで行ってしまい、そのうえ三次会にまで行ってしまった。

最終的に初対面の先生と口論して帰ってきた。

わたしの言っているわたしの持論はわたしにとって間違いがないはずなのだけれどプロの先生に言われるとしろうとのわたしはそりゃあ何も言えない。言えないはずなのに言い出してしまったものだから口論になった。よけいなこと言わんとはいは~いって言っておけばよかったと反省。

どうしても朝家に帰らなければならない予定があったので誰かの家に泊っちゃうとぜったいに起きれない! と感じて這うようにしてネカフェに行った。しぬるように眠った。始発の時間に起きて家に帰った。また寝た。かんぜんなる二日酔いだった。挟んでいないけれどもちろん何度か吐いた。わたしは吐くことに対する抵抗感がゼロどころかマイナスで、ちょっときもちわるいならとりあえず吐いとけってタイプなので速やかにトイレに行きすみやかに吐く。無音で素早く吐けいつも消臭スプレーとトイレそのあとにを持参しているのでセミプロだとおもう。すみません。

 

今日はてんらんかいのミーティングのため学校へきてだらだらミーティングをして研究費清算のための領収書整理をして正本と副本のあれこれをしておなかがすいてチョコレートを食べて手帳をバイト先にわすれて先の予定がまったくわからなくてなにもできないからはやく帰りたい。研究室がさむいからはやく帰りたい。でも帰るのめんどくさい。

 

余談だけれどちかごろポムプリ(※ポムポムプリン)飼いたさがすごい。ゆたんぽ代わりにおなかに入れたい。とおもったけどポムプリゴールデンレトリバーだからかなりでかいなと気付いた。つらい。

 


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まるみえ感。




畏怖と完璧

わたしは幽霊やオバケを信じているわけではないけれど、こわい話を聞いてからおふろに入っているときや、夜中目覚めてトイレに行くときなんか、なんだか不意にこわくなるときがある。

そのときはもう、こわいしどうしようもないし、こわがっているほうが寄ってくると分かっているのにでもこわいしこわいのはしかたがないしどうしようもないし、でもこんなこと考えていると絶対寄ってくる、でもこわい、となって、結局だいたいは下品なことやエッチなことを考えてときをやり過ごす。なぜかオバケってそういうの嫌いなんじゃないかなって思っている。そう考えるとオバケって清潔だ。品もあるかもしれない。

あとになって考えてみると、オバケなんかを怖がっているときはへいわなのだ。空想と戦っているのだから。

 

人に言えないことをしたときや、後ろめたいことをしたとき、人の目を意識しながら、しかしオバケならぜんぜんどんと来い、と思う。オバケは人の目に入らないし、告げ口だってしない。

「結局一番怖いのは人間ですね」みたいなやっすい言葉があるけれども、それってけっこうまじだと思ったりもする。人の目はこわいな。実害あるものな。

そういえば昔は、オバケとだったら分かり合えるかも、なんて思っていたこともある。オバケ、出てきたら話しかけよう。と。オバケの孤独や怨念に共感していたのね。あのころ死んだら確実に化けて出ていたな。

でも今はおおむねへいわだから、オバケがこわい。なぜだか分からないけれどこわい、というか、なぜだか分からないからこわい。

結局モンスターというものは畏怖の心が住処なのだと感じる。

 

 

歳をとるにつれて、いろいろなものの裏が見えてくる。

知人の建てた家に足を踏み入れ、家ってそうか、人が手で作ったのか、木を削って何らかの素材で止めて屋根をのっけたのか、と改めて思う。

そうすると、人が手で作ったものなんかそう信用できるものではないのでは、という思いが頭をもたげる。これまであった家というもののたしかさが揺らぐ。

今住んでいる家は父が母と結婚して建てたもので、私は生まれたときからこの家で住んでいる。デザインなんかもずいぶんと凝って作ったのだと子供のころ父に何度も言われた気がする。

外観もなかなかかわいらしいのだが、個人的にいちばんお気に入りなのはお風呂だ。なんというか、緑だ。全体的に黄緑だ。壁も床も色味のちがう緑色のタイル張りになっていて、浴槽はエメラルドのような透明感のある黄緑色の石かなにかでできている。石の中にはラメが散っている。小物も黄緑で揃えてある。

子供の頃はこれが一般的なお風呂のデザインなのだと思っていたが、小学生のころにはもう、そうでもない、と気づいた。

そのうち、たぶんラブホテルのお風呂ってこんなかんじ、と思うようになった。実際にラブホテルに行くようになって、いや、以外とラブホのお風呂ってふつうなこと多いな、と気づいた。いまだに、うちのもの以上に黄緑でうちのもの以上にメルヘンチック?  なお風呂は見たことがない。

母はキッチンが使いづらいと不満をもらしている。わたしは階段の角度が急だとおもう。

具体的に築何年なのかは知らないが、わたしが24歳なので、この家も少なくとも築24年なのだ。

築24年にもなると、少しずつガタが出てくる。外壁の塗料の色がが薄くなったり、壁がぽこんと膨らんだところがあったり。

それに加えて知人の建てた家、なんて見てしまうと、悲しいかな、わたしをありとあらゆる外敵から守ってくれるはずの家というものが、頑強なもの、けっして崩れないもの、ではなくなってしまった。

そんなふうにして、いろいろなものの作られかたやしくみ、壊れるようすを見ていると、完璧なものなんてほんとにないんだなあと感じる。でもわたしはそれを、それこそを知りたかったのだった。

どんな素材からどんなふうに成っていてどんなふうに壊れるのか。壊れるのか。それがまるっと分かってようやく安心できる。なにに関してもそうだ。人間にしても言葉にしても。わたしは世界に(社会に?)適応してきているのだと思う。

こどものころは、ありとあらゆるものが完璧だった。一分の隙もないまんまるで、付け入る隙がなかった。なにもかも恐れ多かった。

綻びが見えて、そこから侵入して内部を見て、わたしは初めて世界を笑え、世界と対等になれたのだと感じる。



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ところでこの本がおもしろい。


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以上です。


暮らs

口頭試問が終わった。

途中でじぶんの喋りの下手さに絶望しかけたけれど絶望したらほんとうに終わってしまうのでできるだけバカに鈍感になって乗り越えた。ぜんぜん的確な受け答えができなかった。いつもだけれど。

面接の類がほんとうに苦手だ。中学生のとき、英検を受けていたときも、準二級の試験で面接を終えて、もう二度と英検なんか受けない、と思った。それから実際に英検を受けていないので、就職活動のときに資格欄に「英検準二級」と書くべきかいくらか迷った。なにせ随分昔の話だし、実際に英語なんかぜんぜんできないし。結局資格欄には「普通自動車第一種運転免許」としか書かなかった。本当は運転もできないけど。

口頭試問が終わった暁には解放感でいっぱいになるものだと思っていたが、案外、というかまったくそんなことはなかった。やることはまだまだあるからなのだと思う。

 

明日は物件の内見に行くので内見のとき気にすることリストを作成している。このあいだ下書きを彼氏に見せたら「うざ」と言われた。確かにこれ全部問われたら超うざい、という内容と分量になっている。チェック項目が50くらいある。

「迷惑かけんなよ」と言われて、もんだいない、と応えた。希望の物件が10以上あり、且つ「やっぱり自分の目で見ないと分からないことも多いと思うのでできるだけ全部見たいです」とか言っているので既に迷惑はかけていることと思う。

 

授業で、1960年の「団地への招待」というビデオを見た。いかにも60年代然としたナレーションが印象的だった。

そういえば子どものころ、団地は憧れだった。わたしの住んでいた町はいわゆるニュータウンで、半分くらいが戸建、半分くらいが団地やマンション住まいだった。

戸建の家の子はなんとなくおとなしい子が多かったかもしれない。団地の子は明るくて活発でいつもうらやましかった。

 すぐ隣の部屋に友達がいるという環境がそういった性格を作っているのでは、と当時のわたしは考えた。わたしもそうなりたいと思った。わたしも団地に住みたかった。たまに団地の家に遊びに行くと、その暮らしの乱雑さにときめいた。

家があるのだからどうしようもないし、言ってはいけないことだと分かっていたけれど、それでも何度か母に、団地っていいな~と言ったことがある。母は困った顔をしていた。

戸建という地面に根を張っている感覚が重かったのだ、とあるとき気付いた。いつかマンションに住もう、と決めた。

マンションやアパートのあのペラさ、仮住まいの軽さがうらやましかった。そういうところに住めば、わたしも少しは身軽になれるかもしれないと思った。

それなのに今、実際に物件探しをしていて、少しでも「りっぱな」ものを、少しでも「家らしい」ものを、と考えてしまう。囚われているのか。それとも本当はやはりこういうものを求めていて、団地への憧れは、自分とは別の世界の話だと思って面白がっていただけなのか。

自分の不確かさがはがゆい。

 

必死になるシチュエーションがあまりない。命の危険を感じることもあまりないし、衣食住も問題ないし、いざとなったら金を稼げる方法も知っている。

大学生、必死、といったら、レポートや提出物で必死になっている学生がいるが、なんで早めにやらんのだ、とわたしは心底不可解に思う。当日に提出するとかありえないこわい。

わたしはなんでも「前以て」のタイプだ。前以てスケジュールを立て前以て予測したい。予想外のことは大嫌い。だから「今から飲みに行こうよ」みたいなのって、ほんと、おいおいまじか、という感じである。それでも外にいると対応できるが、家の中にいると、もう絶対無理だ。一週間前、せめて一日前に言って! と思ってしまう。やはり重い。(主に腰が)

家がもう、終の棲家感がすごいのだ。毎日家で死んでいる。いったん家に入るとコンビニにすら出られない。こういうところが嫌なのだ、わたしはもっと軽いフーワフーワした生活を送りたいのに。

思えば徹夜もずいぶん長いことしていない。中学生のころは、徹夜して絵を描いて、明け方空の色が変わってくるのを見ているのが好きだった。今はどちらかというと寝たいと思う。だいたいのことよりは寝ることのほうが好きだから。娯楽としての睡眠。

寝ると、昨日の自分は死んで、新しい自分になってしまう。けれど寝ずにはいられない。

わたしはこれからも淡々と生活をつづけ淡々と制作をつづけてゆくのだ、という気がしている。

 

 

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みんなにも、シンデレラオコジョを知ってほしい

 


シンデレラオコジョという鳥を知っていますか。

そう、鳥なのです。

丸くてフワフワしていて、黒いくちばしを持っています。たぶんイヌカレー空間の中にいるのがいちばん馴染むと思うのですけど、フワフワした丸い物体に、テカテカした黒い、孤を描いたようなくちばしが付いています。

見た目はあまり鳥に見えないのだけれど、ふい~っと空を飛んでいます。羽ばたいたりはしません。浮いているように飛んでいます。かなりの低空飛行です。

わたしもまた、その低空飛行中にシンデレラオコジョに捕まったのでした。

軌道線上に獲物(わたし)を捕らえると、シンデレラオコジョは途端にスピードアップし、わたしの脇腹を的確に捉えました。わたしは強烈な痛みを脇腹に感じ、見ると、シンデレラオコジョのくちばしが、見事に脇腹に刺さっていました。深く深く刺さっていました。

シンデレラオコジョの黒いくちばしは鋼のように頑強で、それは、一度刺さると二度と抜けないと言われています。たしかにこれは抜けない。抉られながら、わたしは思いました。

飛んでいると気付かないのですが、くちばしをわたしの脇腹に埋め込み、シンデレラオコジョ自身も動くことのできない現在、そのくちばしのしたに醜く裂けた口があることが分かりました。

そう、くちばしは上半分しかなく、下のくちばしはなく、代わりにニタァといやらしく大きく裂けた口がのぞいていました。ギザギザの鋭い歯が、赤黒い歯茎に刺さるようにして生えています。

痛い。痛い痛い。

どうにもすることができず、悶えていると、大学に入って一番最初に友達になった友人、「この子と一緒にいたら楽しい四年間が送れそう」と思った友人、いつもホワンワとしていて高音でやわらかくしゃべり、性格の捻くれまくったわたしでさえ「まちがいない、このこは良い子や……」と思っている石川県出身の友人がナイフを手にやってきました。

友人は、わたしの脇腹に突き刺さっているシンデレラオコジョの口の端にナイフを差し込み、ずば、と見事にシンデレラオコジョをまっぷたつにしました。

赤黒い肉や白い脂肪が見えて、生々しかった。白いフワフワのなかにこんなものが、とわたしは思いました。そう思っているうちに、くちばしはスッと抜けて、脇腹の痛みは静かに消えてゆきました。

 

 

 

こんな、夢を見ました。

シンデレラオコジョという名前、絶対忘れると思って、起きてすぐにメモ帳に書いておきました。案の定忘れていた。

シンデレラオコジョのシンデレラは「シンデレラサイズ」の「シンデレラ」で、つまり、たぶん、ちいさい、ってことなのだと思います。たしかにちいさかった。手のひらサイズだった。一見かわいいので、脇腹を刺されていると気付いたときはとてもショックでした。

はて、オコジョってどんなだっけ、と思って検索してみて、そのかわいさに恐れおののきました。オコジョ、超かわいい。つぶらな瞳。白い毛。

シンデレラオコジョには目はなかったけれど、確かに白い毛(羽?)をしていました。毛(羽?)がオコジョと同じもので、そこからシンデレラオコジョと名付けられたのかもしれません。

 

ちなみに、シンデレラオコジョは自らの力でくちばしを抜くことができないので、一度くちばしが突き刺さったところからは動くことができず、ほとんどの場合そのまま餓死してしまうのだそうです。

 みんなにも、もっとシンデレラオコジョのことを知ってほしいです。わたしもよく知らないのだけど。

妹にこの話をしたら「起きてから考えたの?」「オコジョって言いたかったの?」と言われて心底腹が立ったので、みんなにも、シンデレラオコジョという鳥がいるということを知ってほしくて、書きました。

シンデレラオコジョはわたしの妄想ではありません。夢の中にすむ生き物です。



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これはノーマルのオコジョです。