おやすみなさい

旧nikki desu

学校でも教えてくれない


歩いたり走ったりすることって、人間あまり意識せずしてしていることだと思うのだけれど、わたしは昔から歩きかたと走りかたに関してはこと顕著に無意識にそれしているとその「しくみ」が分からなくなることがよくあった。

あれっどう歩くんだっけ、となって、じっとその場に立ち止まってしまう。多分右足を地面から離すのだけれど、右足ははたして上にあげるものなのか、前の方に出すものなのかはたと分からなくなる。右足を地面から離すと左足だけで地面に立っていることになり、それってふつうに考えるとこの両足で立っていてバランスをとれている状態からバランスを崩すことであり、先々の見通しがつかぬまま片足で立ちバランスを崩してしまうことはとても怖い。もしかするとこけるかもしれない。

バンジージャンプを飛ぶときのようにえいっと気合を入れて右足をちょっと浮かしてみても前には進めない。左足で地面を押さなければならない。左足だけで立ちゆらゆらしながら、前に進みたいのだから重心を前に移さなければならないと考える。ならば、と踵、爪先、と順番に地面を押してゆく。ここまでくると、体はなんとなく覚えているようで右足が浮いただけの状態からすいっと前に出る。一歩踏み出してしまえば、あとはその勢いでそれを繰り返せば大丈夫。

 

探り探りで歩いているからか、昔から自分は歩き方がへんだなと思っていた。O脚だからかもしれないけどとにかく歩き方はへんだった。ゆだんすると爪先だけでふわふわ歩いてしまう。ありとあらゆる意味で「地に足がついていない」からかもしれない。


子供のころから、すべて1から10まで教わらないと判断つかない。よく覚えているのは「おふろの入り方」。おふろは右足から入るの? 左足から入るの? とかは、いいんです。私は絶対右足から! とかいう人がいたところでそれは願掛けとか習慣とか、まあ、そういう個人の自由の範疇のものだろうから。

でも、シャンプーの量とか、絶対、30センチの長さの髪に対して2プッシュくらい、とか、だいたい想定されている規定の量があるはずじゃない。まずはその「ふつう」を知って、そのふつうよりもっとわたしは泡立ちがほしいのだ! と思えば、そこは自分で科学物質の弊害とか洗い流しの時間が長くなるとか、そういうリスクを考慮して自分で決めるよ。でもまず「ふつう」を教えてほしいの。だから「シャンプーってどのくらい使うの?(あなたが研究員ではないことは知っているのでせめてあなたのこれまでの経験から得た知識を教えてください)」と聞くのだけれど、お母さんは「好きなだけ」と言う。

マヨネーズのかける量とかもそう。好きなだけ。いや、マヨネーズ好きだから好きなだけって言われれば好きなだけかけるよ? でも一般的に、世間がいわゆる「ふつう」としているのはどの程度の量なのか、と聞いているの。

お母さんはきっと、わたしの自由を尊重してくれていたのだと思う。でもわたしはまず自由を行使する前に「ふつう」が知りたかった。

「ふつうに」とか「ちゃっと」とか「ぱーっと」とか、もうぜんぜん分からないのだもの。

 

病院が嫌いだった理由のひとつにはこういうこともある。病状を自分で説明しろというのがよく分からないのだよね。頭が痛いの一言にしても、ガンガンとかズキズキとか、なんかいろいろあるじゃん。子供のころ、「ガンガンですか? ズキズキですか?」みたいな、もうほとんど覚えてないけどニュアンスで答えろ的な医者がいて、おまえ、そういうことはありとあらゆる種類の電流をわたしに流して「はい、これがズキズキの痛みです」「次に、これがチクチクの痛みです」「えー、これは、ガンガン、ですね」とかやってから訪ねろよ。と思ってから医者は嫌いになった。わたしはそれきり何も言えなくなった。あとは単純に無愛想だから嫌い。

今思うとこれは単純にあなたの見ている青とわたしの見ている青の違い理論的な何か(正式になんていうのかはバカなので分かりません)。

 

わたしは「ふつう」が分からない。皆がなんとな~くニュアンスで自然と感じ取っていることを感じ取ることができない。そんなわたしが「ふつう」を知るための作業が「データを集める」だった。たぶんこれを皆は無意識のうちにやっているのだけれど、わたしは意識的にしないと取りこぼしてしまう。データをたくさん入れて、そのなかから平均を探す。そうやって、「ふつう」もだんだん分かるようになってきた。ふつうが分からなかったから子供のころはたいへんだったけれど、これから長く生きてゆくにつれてどんどんデータは増えていく一方だから、わたしはどんどん生きやすくなる。希望的。

 

集団登校、副班長のポジションが好きだった。一番うしろから、集団登校している皆の様子が見れるから。今もわたしは講義のとき、一番うしろの席に座る。教授の字が小さすぎて何書いてあるのかよく分からないとか、教授の声が小さすぎて何言ってるのかよく分からないとか、うしろの席に座っているとやる気がないと見なされるとか、弊害もなくはないけれど、皆の授業を受けている様子を見たいから。あんまり大きい教室のときはまんなかあたりで妥協するけれど。今受けてる講義ってぜんぶ学生10人くらいの講義だからまあほぼ一番うしろにいる。全員のことを見れる。

 

なぜこんなことを思い出したかというと、さっき家の階段を下りていて、あっ今無意識で階段下りてる、こける、と思ったから。派手にこけて階段を転がり落ち、階段の下で複雑なかたちに骨折してマッドサイエンティストが実験に失敗しちゃったいきもの、みたいな形になっている自分、をどこぞにプロジェクションマッピングを見に出かけている両親が帰ってきて発見する、というところまでを想像してぞっとした。

階段は意識して下りるべき。この間無意識で階段を下りていて転んで脛から脂肪がこんにちはしてからは、転ぶと、こと階段で転ぶと、痛いし恥ずかしいしなんかたいへん、ということを再確認して、イチニ、サンシ、という掛け声を脳内で発しながら階段を下りている。でもあんまり考えすぎるとこんがらがってきてなお足が絡まるんだよね。どうすればいいんだろうね。


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