わんわん
犬の夢を見て、朝から犬のことばかり調べている。
抱き上げた犬の腹の温かさがまだ手のひらに残っている。
犬が好きだ。犬っていう言葉が好き。
犬と言えば、今は亡きびわ湖わんわん王国。子供の頃家族で何度か行った。
あまり覚えていないのだけれど、唯一鮮明に覚えているのが有料で犬のお散歩ができるコーナーだった。
当時小型犬が大流行していたこともあり、小型犬はすべて貸出済。残っているのは大型犬もいいところってかんじの大型犬ばかり。もちろんわたしもミニチュアダックスフンドのお散歩をしたかったのだがこればかりはしかたがない。どうこう言ってどうにかなる問題でもないことは小学校低学年の自分でも分かる。分かるけれど、この時点で正直わたしはかなりやる気をなくしていた。だってちっさい子がカワイイのに……。
しぶしぶ、大型犬のなかでも毛足が長く、なんだかやさしそうな顔をしているグレート・ピレニーズのいちごちゃんという子を選んだ。名前から察するにたぶん女の子だ。
しかし、いちごちゃんを連れ出した瞬間妹が泣き始めた。こんなデカいのイヤだとのたまう。カワイクないと喚いている。
わたしは愕然とした。本人の目の前でなんてことを言うんだこいつは、と思った。でもわたしだって同じことを思っていたのだ。デカくてカワイクない、ちっちゃくてチョコチョコしたのがいいと思っていた。
しかしその瞬間から、「デカくてカワイクない、ちっちゃくてチョコチョコしたのがいいと思」われるいちごちゃん凄いかわいそう、と思い始めた。そしてわたしのかわいそうフェチが顔を出した。かわいそカワイイ!!!
わたしは心を入れ替えた。小ささ至上主義の心無い子供たちの代わりにわたしが、わたしこそが一心にこの子を愛そうと決めたのだ。
もちろん大型犬が好きなお子さんも大勢いらっしゃるだろう。けれどわたしは家族ごっこで頑なに「こども」「あかんぼう」、あるいは「ペット」等、その時々で最も年下の、ちいさな役をやりたがった子供である。本質的に、小さくてか弱くて庇護されればされるほどよいと思っている傾向がある。そんなわたしは大きい=かわいそう、と脳内で勝手に変換したのだ。とんだ大きなお世話である。
30分だったか1時間だったか忘れたけれど、あっという間にお別れの時間は訪れた。元気でね、いちごちゃん。もう二度と会うことはないかもしれないけれど。お別れはあっという間だった。最初嫌がって泣きわめいていた妹も、最後は少し、いちごちゃんに心を開いていたように思う。カワイイ、と言っていた記憶がある。
お別れしたあと、手のひらに微かに獣の臭いが残っていた。親に言われて石鹸で手を洗ったら、それはすぐに消えてしまった。
あれから十五年近く経っているし、きっといちごちゃんはもう亡くなっているだろうと思う。いちごちゃん、幸せな人生だったのだろうか。幸せだったらいいな。
どうしてだろう、あのときの、なんでそんなこと言えるの? 信じらんないかわいそう。大丈夫だよわたしが愛すもん。の気持ちは痛いほど覚えている。そしてこの傾向って今でも割とあるかもしれないとふと思う。
かわいそうな人が好き。弱者が好き。虐げられる人が好き。理解されない人が好き。かわいい(^^)