おやすみなさい

旧nikki desu

GWの子犬

ペットショップで子犬を見ていた

ゴールデンウィークの真っ只中、家族連れに囲まれながら子犬は跳ねたり鳴いたりしている

一匹の子犬が寝入る瞬間を見ていた

ベッドに寝転び目をうとうととさせ、徐々に眠りにおちてゆく

まばたきをするたびにまぶたが重くなってゆく

それを見てもう一匹子犬がやってきて、今にも眠りにつかんとしている子犬に寄っ掛かるようにしてひとつのベッドに収まるやいなや、こちらもまたうとうとと眠りにおちてゆく

閉じた目、少し湿った鼻、上がった口角、なんかぜんぶがかわいい

動物ってかわいいな 無条件に愛らしい 生きてるだけでいいんだな

で、そんときわたしは思った

わたしは自分に期待しすぎかなって

わたしも所詮動物なのだし、この子犬ちゃんみたく起きて眠ってごはん食べてを繰り返して死んでもべつにいいんだよな べつにいい

「わたしはしゃべる犬です」、くらいに自分のことを考えておいたほうがいい気がする

 

人間を高く見積もりすぎている?

わたしはもしかして、「人間に対する欲求が高い」「人間に対する要求が多い」「人間を美化しすぎている」のではないか

しかし同時に、「だが「人間」とはかくあるべきものだ」「それに至らない人間が人間足らずなだけだ」という意識もある

これはわたしのプライドだな

このプライドというものがやっかいなのだよな

プライドなんか意味の前にはくそくらえだ、と思うと同時に、意味などなくていい、プライドという信念以上に大切なものがこの世に存在するのか、とも強く思う

一番大切なものってひとそれぞれだと思うけれど、わたしにとってのそれはなんなのだろう

わたしにとって大切なもの

文章 文字 ことば 文章をかくこと うつくしいもの ぬいぐるみたち 水色の家 妹と過ごす時間 家族 おばあちゃんち 思い出 記憶

どれも大切だけれどたいしたことない気もするな

 意味 意志 信念

くだらないよな

ねむっていたい あの夢と夢のあいだ さざなみのようなまどろみに飲み込まれるしゅんかんにずっと佇んでいたい

それはいい いい考えだ うん

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「人間関係」など存在しない

 昨夏、グループで作業をしていたとき、人は人をいともかんたんに使い捨てるよな、と思った

ただ、使い捨てる、という言い方は正確でなく、単に、使っている、というのが正解なのだ
にも関わらず無意識で使い「捨てる」という言葉が出てくるのは完全にわたしの思考回路の問題
ただ使っているだけなんだよな
ただ使っていて、人って普通そういうもので、人と人との関係ってつまりは様々なレベルでの使ったり使われたりのこと なのだ ろう

わたしはわたしの大義に100%わたしのリソースを「使」いたく、故に人に「遣」われれたくないという気持ちがあるのだとおもう
わたしが人を「つかう」ことに抵抗があるのもこのためではないか
人には人の大義があり人はそれを全うする義務じみた権利があるとどこかでおもっている

人は本来「使う」存在だとおもっている

わたしの中で生き物は「使われる」存在ではない
「使」は動詞、「遣」は名詞、というのが一般的な、辞書的な認識だが畢竟「使」は使役の使、「遣」は派遣の遣である
「使」は主の手によって成され、「遣」は主から手放される これは物理的にというよりは概念的に
そしてこの場合の主とは各々の大義=「よすが」のこと
わたしはよすがのためにこそ使われるべきだが翻ってよすが以外のために「つか」われるつもりはない

このふたつの「つかう」、「使う」と「遣う」は本質的には違う「つかう」であるが、わたしの脳としては同じところから出て行くエネルギーなので実質同じ「使う」(=消費)で、使われるとしてもわたしはそこに自分のリソースを割くという決断を自らの正義のため自らの意思で行っているため、消費に次ぐ消費で消耗そして疲弊する

わたしはわたしの奴隷であり、同時にわたしの主人である
他者は、ただ他者である

でも「人間」は、人「間」というほどであるし、関係性の生き物であって、関係性とは結局のところ、ある特異な例を除いては様々なレベルでの使用しあいのことに過ぎないのだろ
ということで、わたしにはきっと多くの人が「人でなし」に見えている 文字通り
そもそもがそういうことなのだ

結局わたしは「関係性」というものに対して完全に「それは、ない」と思っているくせに、「希望を捨ててはいけない」という自分自身の正義のために自らして首を絞めている気がする

ここで更に問題をややこしくしているのが、この「人は本来〜」の思想こそが、わたしがわたしである所以でもあり、わたしの最大の空洞でもある「人との関係性のなさ」による偏った形で既に完成されたものであるということ
この「よる」にしても、「因る」でもあり「依る」でもあり「寄る」でもあるのがわたしの言語の途方のなさのあらわれ(現・表・顕)にちがいない

その上その副産物として歪んだ「正解」が育っていて、けれども自分の中ではそれが正解であるので、正解にはもう従うしかない 120%

一種のテンプレとしての「ひとの気持ちの分からなさ」、自分と他者との間にある完全な断絶、その分かるわけないものを分かろうと、学習&考察&学習&考察を重ね、それでも埋まらない溝を超展開の理論で埋めた結果、現在の偏った正解コレクションが出来上がってしまっているというわけ

そしてこの文章に意味などないということ

 

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ネバーエンディングビーチ

 

先週末、森、道、市場にいってきた。
知り合いにお手伝いしないかと誘われ、たいして考えもなしに二つ返事で行く行く~と言ってしまった。
こういうのほんと10年ぶりくらい、日焼けが嫌すぎるがゆえにアウトドアも野外フェスもやめていたわたし。バーベキューすら行かないものな。
テント泊とかたぶん小学生のときに家族でキャンプに行った以来だとおもう。
 
会場は、愛知県蒲郡。海辺のまち。
のなかでもわたしがお手伝いさせてもらったスペースは一番はじっこ。つまりもうほとんど海。地面砂浜だよ。
 
三日間参加して、最終日は暴風雨がすごかった。レインコート着てたんだけどほぼいみなかった。
下着はなんとかレインコートのメイン部分に収まってくれてしっとり程度で済んだんだけど、着ていたTシャツもパーカーもズボンもかんぜんに搾れるくらいびっちょびちょ。
海辺の暴風やばい、しょうじきナメてました。
 
結局耐えかねて、帰りの予定をすこし早めて帰ってきた。
びしょ濡れで朦朧としながら電車待ちをしていたとき、三河大塚の駅で、おばあちゃんとおばあちゃんが話をしていた。どうやら地元の人らしい。
市民会館? のコンサートのチケットをもらったのでしゃあなし行った、行かないのは失礼だからいちおう行ったんだけど途中で出てきてもうたわウフフフみたいな話をしていた。
また、語尾にしきりに「じゃん」をつけていて、ああ、これがこのへんの方言なんだな、かわいいな~とおもっていた。
調べてみると、三河弁というらしい。たしかにこの駅は三河大塚だった。じゃんだらりん。聞いたことがあるなあ。
 
電車に乗ると、なんだかめちゃくちゃ空いていたのでがまんならず椅子と椅子のあいだで着替えてしまった。今冷静になってみるとやばいやつだな。
見つかってたら猥褻物陳列罪とかなんとかでたいほされてたのかな……みつかってなくてもアウトだったりするのかな。この日記はフィクションなのでゆるしてください。
 
今はとにかく疲労困憊で全身ガッタガタなんだけど、脚がとくにすごい。かかととふくらはぎと膝裏の筋がすごい。
ふだんどれだけ自分が運動不足なのか実感した。なんかこの半年分くらい歩いた気がする。


それにしても、NEVER ENDING BEACH、ネバーエンディングビーチ、終わりのない海辺。ネーミングさいこうだな。emoい。
 
そういえば、二日目の夜、へとへとになって海辺でぼうっとしていたら流れ星を見た。
23時くらいで、あたりにはほとんど人もいなくて、誰も騒いでなどいなかったのでもしや見間違いか? と一瞬思ったんだけど、あれはたしかに流れ星だった。
なんだかぜんぶが報われる思いだった。
 
わたし、なんとなく、もう「就職活動」はしないんだろうなと思っていた。
でも別に、会社に所属したくないというわけではない。その言葉はしっくりこない。
今回森道で、お手伝いさせてもらったチームとか、出店者のひとをぼ~っと見ていておもったのは、わたしは自分で自分の身を立てたいんだなということ。
なんかちゃんと生きてるよ~! 生活してるよ~! って噛み締めながら生活してゆきたいです。なにいってんだこいつ。はやめにちゃんとしろよ。

 

 

 

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ぴかっと光るもの

 

そういえばあのいみふめいな焦燥感感傷がない
いつからかない

終わりから見ていた何か
そのなにかがもうない

学校を出たからか
期限のあるなにかが終わったからか
これがおとなになるってことなのか
わかんないけど

いつも、終わる終わるって思ってた
でもいまは思わない
いつか死ぬんだしとはあいかわらず思うけど
それに対する焦燥感はない そういうものってかんじ
そういうのとはまたちがう
明確にすり減ってゆくもの しゃりしゃり
とけだしてゆくもの ながれてゆくじかんとか
んー

生活のことを考えている
これからどうするとか
終わる今を見ていない
今は終わってく そういうもんだ よね

ねむっていてもいい いいよ
目を閉じて
波に揺れるよに 揺られるよに

すべての女の子と かつて女の子だったすべての人に
そう言った
けれどちがうのかもしれないな
すべての女の子でない人に

そう
すべての女の子でないひと
とても 女の子などでは
女の子という結晶 概念 少年にも似た しかし少女ではない
すべての女の子でないひと
オンナノコ以外のすべてのひと
なにかに思いを馳せること その矛先の先の
まつ毛の先より細い とんがった するどい ぴかっと光る
一瞬の時間
一呼吸よりまばたきより
波の反射の粒よりちいさい みじかい
決して掴むことのできない
そこにはいないもの もういないもの

 

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春来ず

年明けてこのかたとことんツイておらず、あ〜あってなことばかり起きている
もしかすると意識しすぎなのかもしれないが、それにしてもこれはどうでしょうねってくらいツイていない

交通事故に巻き込まれたりお気に入りのサングラスが割れたり買ったばかりのパンプスのヒールがすぐだめになったり自転車がパンクしたりなんかめっちゃ熱が出たりあとここに書けないことも多いんだけど
なんかうまくいかないことが多くてうんざりしていた
ひとつひとつはどうってことないんだけどそれが重なるとあれっなんか運気下がってる? みたいな気持ちになってしまって余計にいけないんだと思う ちょっとしたことを大げさに捉えてしまう わかる わかるんだが

ずっと会いたかった昔の友人とLINEで連絡がとれたのが一年前
会おう会おうって言いながら連絡とれたことに安心してしまってほったらかしにしていたらいつの間にか時間が経っていた
不意に彼女から連絡がきて、私もなんとなくこの機会を逃してはいけないと思った
そうして彼女と10年ぶりに会ったのだが、彼女は結婚するらしい
刺青を消す手術をしていると言っていた
来週には九州に引っ越すそうだ
彼女はなんやかんやあって結構普通の人間になっていた なんというか思ったより当時のサイズ感そのままで大人になったようだ
まあそれもいいんだけど
でももう二人で会うことはないかもなと思った
高校生のころ、二人で制服を着たまま学校をさぼって心斎橋をふらふらしたことを思い出した
テスト期間に始発で学校に行って勉強したことも

彼女を駅の改札まで送って、その帰りに財布を盗られた
キキララのでかいキーホルダーをつけたヴィヴィアンの長財布
青いダウンコート着た欧米系のお前だよ 姿をばっちり見ていたばかりに余計腹がたつ
すぐに警察に行ってカードを止めて、やることはやったのだが、とにかくもうがっくりきていた
人の悪意みたいなものに直に触れるとほんとうに疲れる
最悪すぎてほんとむりですという感情以外湧かない

それ以外にもうまくいかないことが重なり、なんだかすべては嫌になってしまって、もう実家に帰って近所のスーパーとかで働きながら寝て起きて食べてを繰り返して生きてゆきたいなどと思い、いやそれはいかんなって思ったけど、思ったけどとりあえずもうなんか疲れちゃったからいったん実家に帰ろうと思った
もうもううるさいな でももうまじむりってきもちでした ため息と同時にもうという言葉が出る具合
もういやだって思ってたんだと思う

あいつもこいつもしばきまわしたい気分
なにがこんなにいやなんだろう、なんでこんなに機嫌が悪いんだって考えた
ついでになにがしたいんだとかこれからどうしようとか
結局なんにもわかんなかったけど


一週間弱実家でぐうたらして、は〜そろそろ帰るか、と重い腰をあげ一人暮らしの家に帰ってきた
実家はずいぶんと平和だった
朝になれば陽の光があり食後にはフルーツが出る こだわりのワイン 母も父もやさしい 妹はかわいい
母はいつも私に「帰ってきたら?」と言う 決して強要はしないけれど
私はすぐに答える「でも一生ここにいられるわけじゃないから」
一生両親と妹とこの箱の中だけで暮らすことができればそれは幸せなのだと思った
でもそれは無理 人間だからな
そうして私は一人の部屋にいる
なぜ私はこの部屋に帰ってきたんだろう なにをしに
なぜ私は今幸せじゃないのか 幸せじゃない のか?
いや、もう実家に帰って近所のスーパーとかで働きながら寝て起きて食べてを繰り返して生きてゆけ、ばいいのに、なぜゆけないの
何に後ろ髪をひかれているのか
もうほんとにわからんな 考えるのをやめた

帰り道、電車に乗っていたら、真っ白く光るスニーカーに皺一つない制服、たくさんの紙袋を下げている女の子たちがいて、新入生か新学期だな、と思った
四月の三日だった
思えば学生の頃はたくさんの区切りがあって、いちいちそれに救われていたようにおもう
時間割とか単元とか学期とか学年とか
制服の衣替えで季節を知る
そういうことが当たり前だった
月曜日でも火曜日でもほんとは関係ない
過ぎるのは同じ時間で なにをするか、なにを見るか、考えるか、そういう味付けで変化をつけているだけ


うまくいっていないのは相変わらずで、一人でアホみたいにわんわん泣いたりしているんだけど、どうしたらいいのかよくわからない
なんでこんなにわからないんだろう?

免許証再発行したり保険証再発行したりカード再発行したりマジでめんどいんだが半泣きで復興しているところ
それでも相変わらず記憶をなくすまで飲んで傷だらけになったり人にもらったものをなくしたりしている
先日警察から電話があり川の中からクレジットカードだけ発見されたそうです、マジかそれ絶対川に捨ててるよな、あいつが残酷な死に方で死にますように

そういえば彼女もヴィヴィアンを好きだったな、昔

 

 

 

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手紙と日記

日記と手紙が好きだ

 

昔から手紙が好きだった

わたしは口下手で、でも手紙だとすなおなことが言えるから

初めて字が書けるようになって、きっと多くの子供はお母さんに手紙を書く

みんな同じような言葉並べて

そのうち幼稚園の友人たちに

好きだった男の子に、バレンタインのチョコレートに添えて

小学生になると、メモ帳をハート型に折って授業中に回しあった

中学生になって初めて付き合った男の子にも手紙を書いたな

今日一緒に帰ろうとか 次どこで遊ぶとか

ノートの切れはしに、ギザギザの字 男の子ってずっと字が変わらないんだなあ

 

そのうち手紙を書かなくなった

メールも送らなくなった

人と何を話していいか分からない

わたしは代わりにインターネットに日記を書くようになる

 

いつも誰かに宛てて手紙を書いた

誰だったかは、そのときどきだけれど いつも

好きだったバンドマンだとか 会わなくなった友人とか

そういう気持ちをきっと忘れたくなかった いつか忘れるものだと知っていたから

手紙はいい 出しても出さなくても

出せば相手はきっと喜んでくれる

出さなければその気持ちごと自分のものになる

 

大人になって、みながかんたんには手紙をかかなくなって

手紙ってやっぱたいそうなんだ

ぼんやり思っていることをはっきり文字に起こすのってけっこうめんどくさい

ちょっと違うだけですごく気になるし

空気を型にぎゅうぎゅう押し込んでいるかんじがして正しいのかどうかもよく分かんない

わざわざそんなことをするんだから、一大事だ おおぎょうなことだ

でもそのくらいの気持ちはある

 

最近、ときどき手紙を書く 出すやつ

普段お世話になる人の誕生日に、プレゼントに添えて渡したり

手紙までいかなくとも、ちょっとしたメッセージカードを添えるようにしている

単純に自分がそういうのが好きなだけなんだけど

好きなだけなんだよな結局

何か書いたりするのが 思ってる考えてることが文字になるとうれしく思う

これだけ気持ちがあるんだから、せっかくだから形にしよって思うようにしている せっかくなので

 

そういえば、中学生のころの友人も、近頃手紙を書いている

好きな役者の好きなところを熱心に綴る そして送る

そこにはほんとうに気持ちしかない

読んでるか読んでないかも分からない でも形にして伝えたいって思うから送る

手紙ってぜんぶラブレターだよね

 

日記もたぶんそういうかんじ

今わたしは誰に宛てて手紙を書いているんだろう

きっと、昔の自分とか、未来の自分とか、そういうの

今ここにいない自分に向けて手紙を書いている いつかこれが意味を成すと思って

 

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年を越すこと

年を越す。

去年の年末はなんだかばたばたと忙しく知り合いの仕事のてつだいをしていた。

よいあんばいの一人がけソファを探すために高速に乗ってIKEAに行って結局何も買わずに帰ってきたり、新しいバスタオルを洗濯したら洗濯物じゅうに毛玉というかくずがすごくて「これはもうわたしにはとてもむり」と途方にくれたりした。洗濯物を洗濯機につっこみすぎてすわ地震か? みたいな轟音と振動が響いた。

照明はこっちがいいとか、コップはこれとか、たぶん誰も見てないよなところをいっしょうけんめいこだわって、でも過ぎてみればあんなのなんだってよかったんだよな。

クリスマスに夜逃げみたいにして部屋から部屋へ家具を運びまくったのも今ではよい思い出。

いったいなにをしていたのか。経歴に残っていないので、なにもしていない。

それも三月には終わって、では今年は何をしていたのかというと、はて、いったいわたしは何をしていたんだろうか。この一年、ほんとうにあっという間だったよな。毎年思うのだけど、今年はなおさらそう思う。

年の瀬はいつもせつない。

過ぎ行くものを意識したとき、ひとはこういう気持ちになるのか。青春とにている。

 

10月ごろから、名古屋と新潟と石川と長野に旅行した。きっとこんなに旅行をする二ヶ月は二度と来ない。旅行じたいに興味がないだが、誘われたときは、むりがない限りは乗るようにしている。そうでもしないとわたしは一生部屋から出ない。

名古屋へは、妹と四季をみに行った。

せっかくだからと一泊して名古屋観光をして帰ることにしたのだが、名古屋ってば意外と見るものがない。そのうえ割と近所だ。新幹線30分くらい。初めてでもない。名古屋に住んでいる知り合いに聞いたところ、「ひまか島」がおすすめだというので、2日目はその島へ渡った。のんびりとしていていい場所だと思った。名前のとおり、ひまの島。こういうところへ来ると、いつも、将来いなかに移住するか~、みたいな気持ちになる。わたしはばかなのか。移り住むなら福井か長野に行きたい。

フェリーに乗って島に渡り、妹の写真を撮りながら島を一周して、ごはんを食べて、フェリーに乗って帰った。日差しが強くてまぶしかった。妹は、明後日からの仕事がいやだとぼやいていた。わたしは一生この島で妹と暮らしたいと思った。

ホテルで食べたハーゲンダッツのバニラがおいしかった。

妹が突如としてリトルマーメイドにハマり、どうしても観たいとのことで名古屋まで四季を観に行ったわけだったが、妹は、アリエルの自己チューさに憤慨していた。わたしもしずかに同意した。物語の登場人物というものはいつもだいたい自己中心的。

名古屋らしく、きちんと、手羽先、ひつまぶしを食べた。味噌カツは食べなかった。味噌煮込みうどんも。

帰りに資生堂パーラーに寄ってショートケーキを食べた。妹はもう、明後日からの仕事のことで頭がいっぱいのようだった。私はその顔をただじっと見ていた。

一日目、名古屋駅近くのホテルに泊まった。私は一日のスケジュールをきっちり組みたいほうで、そうでなければ相手に全投げしたくなる。急に意見など求められても困る。ただし妹相手にそれは通用しないことが分かっていたので、何時の電車に乗って何分で乗り継ぎをすればフェリーのこの便に乗れて、島一周にはこの程度時間がかかるのでまあ余裕を見てこのくらいのフェリーに乗れれば帰りはこの電車で切符取ってる新幹線までスムーズだね、みたいなのを全部全部ミチミチに調べていたのだが、フェリーが1時間に一本レベルしかなかったり、チェックアウトの時間が迫っていたりでなんとなくソワソワしていたのだろう、妹が「なにかする?」と訊くので、電車の時間だかなんだかを調べてもらおうとしたのだが、いかんせん遅い。自分がやったほうが早いと判断して「もういいよ」と言ったのだが、それきり妹は押し黙ってしまった。これは怒らせたかな、と思ったので、調べ物がひと段落したあとで「怒ってる?」と聞いてみた。「怒ってない」と妹は言う。「拗ねてる?」と聞いてみた。「拗ねてない」と言う。

こういうやりとりをしているうちに妹はしばらくじっと黙って、それから泣き出した。そこでわたしはようやく、かなしかったのか、と気がついた。

妹は、分からなくて、何もできなくて申し訳なかった、頼りにされなくてかなしかった、と言った。

ばかだと思われるかもしれないが、じっさいのところ、ばかなのだ。こういう気持ちはばかにしか分からないのかもしれない。わたしにもこういう気持ちがよく分かる。分かるから、別にそれならそうと言えばいいのに、ばかだなあ、なんて思いながらも申し訳なくて、申し訳ないけどなんだかかわいくて、笑いながら謝った。謝ってから写真をぱしゃぱしゃ撮った。かわいかった。

しばらく泣くと妹はすっきりしたようで、静かに化粧を直して、「もう行ける」と言った。

 

新潟へは、宝塚を観に行った。どう考えたって京都から宝塚へのほうが近いのだが、なんやかんやあって、新潟まで赴くことになった。初めて見た宝塚歌劇団は一幕がミュージカルで二幕がショー。ショーがすばらしく、何日経っても歌が頭から離れない。ミュージカルのほうは鳳凰伝というおはなしだったのだが、主人公のトゥーランドット(と男)の自己チューさがアリエルにも勝るもので、わたしは頭を抱えてしまった。主人公というものはこうも自分勝手なものか。これが感動の物語として罷り通るものなのか。うんざりである。ホテルでは、ハーゲンダッツのソルトクッキー味みたいなアイスを食べた。ビジネスホテルでハーゲンダッツを食べることにすっかりはまってしまった。

翌日は新潟観光、のつもりだったのだが、この新潟、名古屋に輪をかけてみるところがない。いや、あるのだけれど、なんせ遠い。片道2時間半て。その日の夕方にバスを控えていたため遠くまでは行けず、せんべい王国というわたし激推しの謎空間へ行った。友人は最後まで「せんべいに興味ない」と言っていた。わたしとてそこまでせんべいに興味などないのだが、わたしがそう言ってしまってはせんべい王国に向かう意義があやふやになってしまう。なにかがいろいろと逆転している気がしたが、気にしたらおしまいだと思い深くは考えないようにした。

雨がひどく降っていた。だからか、せんべい王国はがらんとしていて、観光客のすがたもちらほらと見える程度だった。

せんべい焼き体験ができるというので、大きなおせんべいをひたすらひっくり返した。ひっくり返して焼き、しょうゆで絵付けし、もう一度焼く。それだけのことなのだが意外とこつが要るようで、わたしは一度せんべいを割ってしまった。温度差が大きく出るとせんべいに亀裂が入りやすくなるようで、できるだけゆっくり熱し、冷めないうちに絵を描き、すみやかに、しかしじわじわと熱を入れなおすことが重要だそうだ。

せんべいとわたしたちの面倒をみてくれていた従業員のおばちゃんは、わたしひとりだけ割れてしまったことをふびんに思ったのか、わたしが再度せんべいを焼いているあいだただ待つだけになる友人をふびんに思ったのか、なんとかひびだけで保っていた友人のせんべいを見「これ割っちゃう? も一回焼き直す?」と言った。友人はエッめんどい、みたいな顔をしていたが、おばちゃんは「割るね! これひみつね!」とかなんとか言って網にせんべいを叩きつけてハート型のせんべいをばりばりに割った。

かくしてわたしと友人は第二ラウンドに突入し、今度ばかりはと颯爽とせんべいを焼き、ぶじに大きなせんべいを完成させた。友人はまだ「これ絶対いらん」と言っていた。

その頃には客もずいぶんと増えていて、せんべい焼きスペースは中国人の団体であふれていた。

ひとり、若い男の子の店員さんがいて、せんべいを焼きながら話していると、18歳だと言っていた。人と関わる仕事がしたくてここで働いているそうだ。へえ。せんべい王国。雨の日のせんべい王国の思い出。

移動のバスに乗る前に食事をとることにしたのだが目ぼしい店が見つからず、しかたなしに駅の中の店で食べたいくら丼がおいしかった。雪の降りそな曇天のなか、ビールを飲みながらだらだらと食べ、すぐに誰とでも親しくなれてしまう友人は店員のおばちゃんにおすすめのお土産についてあれこれと訪ねていた。

夕方には高速バスに乗って石川まで向かった。道中わたしはずっと眠っていたのだが、友人が言うにはずいぶんとひどい雹が降っていたらしく「死を覚悟した」と言っていた。ガラスが割れる気がしたらしい。あんな轟音の中でよく寝てられたな、と言われた。

石川へ着くともう夜だった。さっき食べたばっかりだとは思ったが、駅のそばの居酒屋でかんたんに夕食をとり、その日はホテルに帰ってすぐに眠った。

翌日、学生時代の共通の友人と待ち合わせて、21世紀美術館へ向かった。企画展がとても好みで機嫌がよかった。箸に金箔を貼ったり海鮮丼を食べたりしているうちにあっという間に時間になり、私と友人はサンダーバードに乗って京都へ帰った。

京都駅に着くと、ああ帰って来た、という感じがする。子供のころ、同じようにサンダーバード(昔は「雷鳥」だったが)に乗って休みのたびに祖母の家に行っていた。その頃は、帰りたくなくて、帰りの電車の中で毎回泣いていたっけ。祖母の家に向かう道すがらでしか訪れなかった京都駅。いつの間にか、妹と買い物に来たり、友人と遠征のために待ち合わせたり、仕事の場になったりした。

高校生のころ、夜行バスに乗って東京までライブを見に行くとき、毎回二度と戻ってこられない気がして心臓が痛んだ。遠征帰りの気怠い感じ、明け方の凍える空気、帰ってきた、帰ってきてしまった。ライブが終わって日常へ帰る。それを何度も繰り返す。

もういやというほど見たはずの京都タワーだって、何度も写真に撮ってしまう。毎度、こんな色だったっけ、と思う。

自分の働いていた場所を見ると、同期はどのくらい残っているだろうか、今どうしているだろうかと気になる。そういう余裕が出てきた。でもきっと、もう二度と会うことはないんだろうな。

あっという間に、あたりまえに、2017年は終わる。

 

 

 

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