おやすみなさい

旧nikki desu

「人間関係」など存在しない

 昨夏、グループで作業をしていたとき、人は人をいともかんたんに使い捨てるよな、と思った

ただ、使い捨てる、という言い方は正確でなく、単に、使っている、というのが正解なのだ
にも関わらず無意識で使い「捨てる」という言葉が出てくるのは完全にわたしの思考回路の問題
ただ使っているだけなんだよな
ただ使っていて、人って普通そういうもので、人と人との関係ってつまりは様々なレベルでの使ったり使われたりのこと なのだ ろう

わたしはわたしの大義に100%わたしのリソースを「使」いたく、故に人に「遣」われれたくないという気持ちがあるのだとおもう
わたしが人を「つかう」ことに抵抗があるのもこのためではないか
人には人の大義があり人はそれを全うする義務じみた権利があるとどこかでおもっている

人は本来「使う」存在だとおもっている

わたしの中で生き物は「使われる」存在ではない
「使」は動詞、「遣」は名詞、というのが一般的な、辞書的な認識だが畢竟「使」は使役の使、「遣」は派遣の遣である
「使」は主の手によって成され、「遣」は主から手放される これは物理的にというよりは概念的に
そしてこの場合の主とは各々の大義=「よすが」のこと
わたしはよすがのためにこそ使われるべきだが翻ってよすが以外のために「つか」われるつもりはない

このふたつの「つかう」、「使う」と「遣う」は本質的には違う「つかう」であるが、わたしの脳としては同じところから出て行くエネルギーなので実質同じ「使う」(=消費)で、使われるとしてもわたしはそこに自分のリソースを割くという決断を自らの正義のため自らの意思で行っているため、消費に次ぐ消費で消耗そして疲弊する

わたしはわたしの奴隷であり、同時にわたしの主人である
他者は、ただ他者である

でも「人間」は、人「間」というほどであるし、関係性の生き物であって、関係性とは結局のところ、ある特異な例を除いては様々なレベルでの使用しあいのことに過ぎないのだろ
ということで、わたしにはきっと多くの人が「人でなし」に見えている 文字通り
そもそもがそういうことなのだ

結局わたしは「関係性」というものに対して完全に「それは、ない」と思っているくせに、「希望を捨ててはいけない」という自分自身の正義のために自らして首を絞めている気がする

ここで更に問題をややこしくしているのが、この「人は本来〜」の思想こそが、わたしがわたしである所以でもあり、わたしの最大の空洞でもある「人との関係性のなさ」による偏った形で既に完成されたものであるということ
この「よる」にしても、「因る」でもあり「依る」でもあり「寄る」でもあるのがわたしの言語の途方のなさのあらわれ(現・表・顕)にちがいない

その上その副産物として歪んだ「正解」が育っていて、けれども自分の中ではそれが正解であるので、正解にはもう従うしかない 120%

一種のテンプレとしての「ひとの気持ちの分からなさ」、自分と他者との間にある完全な断絶、その分かるわけないものを分かろうと、学習&考察&学習&考察を重ね、それでも埋まらない溝を超展開の理論で埋めた結果、現在の偏った正解コレクションが出来上がってしまっているというわけ

そしてこの文章に意味などないということ

 

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