おやすみなさい

旧nikki desu

自分にとって、「私の」身体とは何か。それはどこにあって、どのように働いているのか。

 私にとって一番の私の身体とは「言葉」である。「文字」といったほうが正確かもしれない。どのような文脈でどのような単語を選択しどのようなかたち、色、においを持った文章を作り上げるのか。それは紛れもなく私の心の内を表すものであり私の第一の身体と言えるだろう。

 

 では、実際の私自身の身体、「肉体」のほうはどうかと考えてみる。

 私にとって私の肉体とは、道具である。主義主張のための、表現の為の道具である。

 私はいつからか、私の本体は思考にこそあると考えていた。私の感じていること、考えていることこそ私の本体で、肉体はそれを外の世界と繋げるための道具というわけである。故に、幼いころは心と肉体との「ずれ」のようなものに悩むことも多くあった。思考に口が追い付かず思っていることが話せない、心は美しいものを求めているのに自らの容姿は美しくない等心と肉体がちぐはぐで回路がうまく繋がっていないような、どこか遠い場所に心を持っているようなイメージでいたのだ。私の肉体と心が本当に繋がったのは、高校生になって、初めて男性との性体験を得たそのときからであるように思う。

 世間を知り、人と出会う中で自分自身の肉体と折り合いをつける方法が分かってゆき(私にとって一番の方法は酒だった)、肉体の活用方法(別にいやらしい話ばかりではない)も分かってきたことで以前に比べると「ずれ」に悩むことも減った。むしろ、相乗効果を生む生き方というものが身についてきたように思う。

 しかしそれでも私の本体は心であり肉体は道具だという思いは変わらない。それはやはり、私の肉体が未だに「身体未満」のものであるからなのだと感じる。

 

 「身体」について考えたとき、私は「からだは所詮肉のかたまり、容れ物である」という考えがどこかにある。肉体、と言うとますます物質感は増す。「身体」は紛れもなく物質であるのだが、「身体」という言葉には肉体以上のもの、心や魂といった目に見えないものをも含まれているように感じる。(それはきっと「身」に含まれるニュアンスのせいだと考えている)(肉体、体、身体、躰、私たちが「からだ」と呼ぶものにはたくさんの名がありそれだけ意味もありなんだかとってもやっかいだ)私の心と肉体が未だ切り離されている以上、私の身体はやはり「身体未満」なのだと考えざるを得ない。以上を踏まえた結果、私の第一の身体はやはり「言葉」、とりわけ「文字」ということになる。

 

 文字は操作できる。ぐずな私にはそれが調度よいのだろう。どういう言葉を選択するのか、それをどうやって配置するのか、じっくりと腰を据えて考えることができる。(逆に言うと、熟考できない文字表現やスピーディーな会話なんてものは言うまでもなく苦手である)もちろん、肉体も操作できるのだ。私だって毎朝出掛ける二時間前に起き、化粧をしその日のファッションを考え髪を整える。ヘアカラーにはこだわりがあるし、気に入らない服なんて絶対に着たくない。夜更かししたりなんかして化粧乗りの悪い日には一気にテンションが下がる。装いだけでなく、その気になれば肉体そのものだって操作は簡単だ。ダイエット、プチ整形、皆当たり前のように肉体を操作している。私は心のために肉体を飾る。心を武装するために、自分以外のすべての人間を欺く「身体コスプレ」が必要なのだ。それでも違和感は拭えない。コスプレなんであるからして本物ではない。私は身体を乗りこなせていない。(乗りこなす、なんて言葉が出てくる時点でもう全然だめだ。紛うことなき「自分の身体を乗りこなせていない証拠」である。)

 けれどもコスプレも続けていると、段々とその気になってくる。私の肉体が、「アレッ私もしかして身体にレベルアップしたんじゃない?」そんな風に思うこともあるだろう。23年、生き続けているうち徐々に生きやすくなっていると感じる。コスプレが板についてきたということだろうか。

 

 余談になるが、私は夢を見ることが好きだ。

 よりリアルなゲームのように、夢のなかで自分自身が様々な体験をすることができるのがおもしろいのだと思うのだが、夢のおもしろさを力説していると「それって現実世界と同じじゃん」と言われることが多々ある。「現実の方が自由じゃん」とまで言われることもある。違いはきっと、肉体の感覚なのだと思う。夢の身体には肉体がない。私は自由に心のままに、自分自身足れるのである。しかし現実の自分は身体を持て余し、重い肉体を引き摺り歩いている。現実より夢をおもしろがっているようでは、やはり私はまだ心と肉体を一体にしきれていないようである。と同時に、無邪気に心身一体をやってのける彼女らに対しあっぱれ、と思わずにはいられない。

 

 私が「私自身」だとのたまっている心の実体はどこにもないが、肉体は今ここに確かに在る。私は私の肉体を嫌いでない、と今は思うし、頼もしい、とすら感じることもある。「身体」にレベルアップしていただければ、なおよいのだが。

 私は肉体を引き摺り、持て余し、どこにもない心を駆使してどこにあるかも分からない本当のことを知る為にものを書いているのだとぼんやり考えた。